第38話

 架月を抱きしめたとき、自分の想いに気づいた。ずるいと言われ、想いが伝わらなかったことに気づいた。ずるい、と。その気も無いのに思わせぶりな態度だと言われているようだった。以前も、ずるいと言われた。悪いのは、透の方だ。想いも考えも意見も口に出さないから、架月を傷つけてしまったかもしれない。

 16歳の誕生日から1週間経ち、架月はいつもと変わらぬように振る舞っている。

「おにいちゃん、温かい」

 土曜日の早朝。セミダブルのベッドで、架月は透を背後から抱きしめ、腕をまわす。

「架月、そろそろ離してくれるかな。おにいちゃん、遅刻しちゃうよ」

「まだ、木曽路はすべて山の中、だよ」

「夜明け前」

「おにいちゃんは教養があって、素敵」

 架月は背中から透を抱きしめたまま、パジャマの襟に顔を擦りつけた。うなじに架月の髪が触れ、くすぐったい。透は勢いをつけて起き上がり、目ざまし時計代わりのスマートフォンで時間を確認した。やはり、いつもの起床時間だ。

 架月も、ふらふらと身を起こした。スマートフォンの発光に照らされて、とろんとした目をぱちぱちさせる様子が見えた。

「架月はお休みなんだから、寝ていなさい。昨日は遅くまで勉強していたんだろう」

 架月は、うん、と頷いた。頬を撫でると、架月は透の手のひらに擦りつくように顔を預ける。頬を綻ばせ、目を閉じた。その様子が可愛らしいと、透は思ってしまう。透と同じ身長だから同じサイズのパジャマにしたのに、架月が着ると大きく感じる。それもまた、あどけなくて可愛らしい。

「おやすみ、架月」

「うん……おやすみなさい」

 架月は頷き、ベッドに横になった。透は架月に布団をかけ、起床した。電気ヒーターで暖を取りながら着替えたいところだが、時間が惜しいので気合いを入れて手早く着替える。着替えながら思ってしまう。なんだ、俺の言動は。まるで、体の関係を持ったみたいじゃないか。絶対に、何があっても、自分から手は出さない。透は固く誓った。

 昨夜の残りのシュクメルリを鍋ごと温め返し、初収穫の大根の煮物とカンパーニュで朝食にした。シュクメルリは架月の分をスープ皿に取り、残りはスープジャーに入れてお弁当に持って行くことにした。寝る前に干した洗濯物を2階のベランダに出し、架月を起こさないように掃除機でなくモップで掃除をする。掃除が終わると、菜園の手入れ。白々明け始めた屋外で、小かぶを収穫し、キッチンに戻って浅漬けを仕込んだ。

 家事が終わると、アトリエで作陶。朝の限られた時間でもやりたいのは、釉薬をかける作業だ。大きな作品や、二重がけしたいものは時間がかかるので、落ち着いてできる夜にまわすが、今なら小さい作品に釉薬をかけられる。スマートフォンのアラームを設定し、透は時間の許す限り作業をした。

 アラームの直前で作業を終え、家に戻る。キッチンから、鈍い音が聞こえた。

「架月?」

「おにいちゃん、ごめんなさい」

 びくりと身を震わせ、架月が怯えた表情を浮かべた。床に這いつくばり、落としたものを拾う。透が架月の誕生日にプレゼントした、しのぎのマグカップだ。

「怪我しなかった?」

「うん。でも、おにいちゃんの作品に酷いことをしちゃった。駄目だね、俺は」

「俺だって、落とすよ。割ることもあもの。だから、落ち込まないで。朝ご飯、食べられた?」

「うん。美味しかった。完食」

 架月は、洗ったスープ皿と小鉢を見せてくれた。切り分けたカンパーニュも、減っている。

「ありがとう、架月。じゃあ、俺、仕事に行ってくる」

「行ってらっしゃい、おにいちゃん」

 玄関で見送られ、透は「ほうがの里」に出勤する。夏場と違い、お客さんは少ない。工芸体験希望者がわずかに訪ねてきて、応対した。世間は休日なので、電話は少ない。シュクメルリと、いつも給湯室にストックしているクッペで昼食を摂っていると、休みの灯子からスマートフォンに電話があった。

『透くん、昼休みにごめんね』

「とんでもないです。今、大丈夫ですよ」

『良かったー。あのね、12月の大茶会に興味ない? 前売り券を買ったんだけど、用事ができちゃって、行けないんだ。透くん、架月くんと行ってみない?』

 日時は、架月の期末試験の後だった。会場は、市内でも大きな寺。小さな山の中にあり、長い石段があったはずだ。

「行ってみたいです。架月にも、話してみます。きっと、喜びますよ」

『ありがとう、助かるわ! じゃあ、月曜日に券を持って行くわね』

 通話が終了し、透は鼻歌をこぼしてしまった。大茶会。初めて架月と行くことになる。浮かれた気分を沈めながら仕事をして、定時で退勤した。冬季は、16時まで。

 いそいそ帰宅すると、架月は居間で腹筋ローラーをしていた。

「おにいちゃん、おかえりなさい」

「ただいま。根を詰めるんじゃないぞ」

「でも、運動しなくちゃ。おにいちゃんの料理、美味しいんだもの」

「いつもありがとう。今夜は、鮭のちゃんちゃん焼きをしようか」

「俺もつくる」

 ふたりでキッチンに立ち、キャベツやぶなしめじ、じゃがいもをたっぷり入れた、鮭のちゃんちゃん焼きをつくる。大きなフライパンで煮詰める間に、透も久々に腹筋ローラーをやってみた。相変わらず、ずりーんと前に出てしまい、腹筋を使って戻ることができない。架月に教えてもらいながら再挑戦するも、なぜか肩に力が入ってしまう。腹筋ローラーは後日やることにした。

 夕食に鮭のちゃんちゃん焼きを食べ、12月の大茶会の話をして、近いうちに呉服屋に着物を見に行くことにした。

 架月と一緒に過ごすこの時間が愛おしい。でも、心のどこかで思ってしまう。架月が年頃の女の子と付き合う楽しさを味わえないのではないか。その機会を透が奪っているのではないか。

 悩みながらの釉薬がけは、遅々として進まなかった。なかなか集中できず、俯いて溜息をついてしまう。予定時間をかなりオーバーして終了し、片づけをしてアトリエを出ようとしたとき、スマートフォンに電話があった。相手は、酒々井千津。久しぶりだ。

『勝呂さん、こんばんは。今、大丈夫ですか?』

 相変わらず、千津は透を勝呂さんと呼ぶ。千津だけではない。透の苗字は保原だが、架月の高校の関係者からは架月の苗字で呼ばれることが多く、透自身もすんなり受け入れていた。

「大丈夫ですよ」

『近くに、その……架月くんは』

 千津にしては珍しく、歯切れが悪い。

「架月なら、寝てしまったと思います」

『そうでしたか。勝呂さんにお話ししたいことと、お渡ししたいものがあります。近いうちにお会いできますか?』

「明日なら仕事が休みですが」

「ありがとうございます! では、明日」

 時間と場所は後ほどメールする、とのことで、通話は終了した。透はアトリエを出て、冷え込んだ山の空気に身を震わせた。夜空を見上げれば、澄んだ空に名も知らない冬の星座が在る。

 家に戻ると、架月が軽い足音をたてて寄ってきた。

「おにいちゃん、どうしよう」

 架月は、整った眉をハの字にして困った顔になる。それがあどけない子どものようで、不謹慎だが透は頬が緩んでしまった。

「何かあった?」

「クラスメイトとグループトークをしていたんだけど、急遽明日ランチに行くことになっちゃった。学校の最寄り駅の近くにある、中華料理のお店みたいなんだけど」

 透は、拍子抜けしてしまった。深刻な悩みだったらどうしようと思ってしまったが、そうでなくて安堵した。架月に声をかけてくれる仲間がいたことにも、安心した。

「良かったじゃん。行ってらっしゃい。車で送るよ」

「そんな、悪いよ。バスと電車で行くよ」

「俺も用事ができちゃったから、そのついでだと思って、あま……」

 次の言葉は、ためらってしまった。架月は困り顔から、不思議そうな表情に変わり、小首を傾げる。透は唾をのみ、勢いをつけて言い切った。

「甘えてほしいな」

 架月は大きな目をさらに見開き、徐々に頬に赤みが出てくる。うん、と頷き、透に抱きついた。

「おにいちゃん、大好き」

 透も架月に腕をまわし、細い体を抱きしめた。細いが、筋肉がついてしっかりしている。

「おにいちゃん、ずるい。大人の余裕、俺も身につけたい」

「架月は、可愛い架月のままでいてほしいな」

 ずるい、とはそういうことだったのか。責められているわけではないとわかったが、透は自分を恥じた。はっきりした態度を取らない自分にも、預かっている子に口外できない感情を抱いていることにも。

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