第2話

 4月7日。無防備な唇に口づけを施される夢を見て、透は目を覚ました。目覚まし時計代わりのスマートフォンで時間を確認すると、そろそろいつもの起床時間だ。

 春とはいえ、田舎の山は、朝晩ぐっと冷え込む。

 現在の自宅は、古民家を改装した家だ。縁あって借りている。

 昔は養蚕農家で、「やぐら」という天窓のようなものがある。2階は梁が低く、屋根裏の部分が大きい。前の家主が改装の際に、2階の半分を壊して吹き抜けにし、もう半分はロフトのようになっている。

 山奥の古民家で、ひとり暮らし。

 アルバイトで社会と最低限のつながりを保ち、自宅の敷地で自分が食べる分の野菜を育て、それ以外の時間はアトリエに籠もって作業に打ち込む。

 寂しいと思う瞬間は、ある。独身どこんな暮らしでは、老後生活が成り立たないのではないか、とも思う。

 それでも透は、自分を保つのには、今の生活が精一杯だ。

 ベッドから出て、洗面台で顔を洗う。不意に指先が唇に触れた瞬間、血液が沸騰したのではないかと思うほど内側から熱くなった。

 ここ数日、こんな調子だ。初回は、征樹の電話を受けた次の日。架月の入学式に出てほしい、と頼まれてから、架月のことを思い出すようになった。頻繁に頭の中で反芻されるのは、キス疑惑の唇の感触だ。その瞬間は布団を舐めたかな、としか思わなかったのに、いつの間にかキスをしたことに、体が認識している。極めつけは、今朝の夢だ。キスなんて、女性と何度も経験している。キス以上のことをしたこともある。有り体に申し上げれば、快感だったし、自分は人並みに欲を持っていることに安心した。それなのに、なぜ今になってこんなにも同様しているのだろうか。

 今日は例の架月の入学式だ。保護者として出席すれば、もう用は無い。高校生になるのだから、以前のように泊まらせることもなくなるだろう。

 悩むだけ無駄だ、と自分に言い聞かせ、朝食を摂ることにした。

 透が「ポパイトースト」と称した、ほうれん草とチーズを乗せた食パンを、冷凍保存しているので、一食分をトースターで念入りに焼き、その間に湯を沸かして緑茶を煎れる。起床後に熱いお茶を飲むのは、母親のルーティーンだった。あまりにも強く薦められるものだから、母親の死後も透は自身の習慣にしていた。

 緑茶の後は、コーヒーをドリップし、焼き終えたポパイトーストと一緒に頂く。

 冷凍室のポパイトーストは、残りが少なくなっていた。

 食パンはまた手捏ねでつくれば良いが、ほうれん草は先日最後のひと束まで収穫してしまったはずだ。

 確認のために敷地内の菜園を眺めると、冬野菜が「代替わりしてたまるか」と言わんばかりに元気に成長していた。ほうれん草は跡形もない。

 野菜達に水をやり、透はアトリエに向かった。

 依頼を受けている金継ぎはまだあるし、フリマアプリに出品した黒そば釉の片口のセットが購入されていたので発送作業をしなくてはならない。

 何より、時間が許すまで、アトリエで作業をしたかった。

 小さなアトリエで、透は作業に取りかかる。没頭し過ぎて時間を忘れないようにスマートフォンのアラームをセットしておく。

 片口のセットを梱包すると、金継ぎね作業に取りかかった。

 今日行うのは、金継ぎの前処理だ。

 鳥足のように欠けた皿の補修を依頼されている。

 欠けた部分を接着する前に、割れ目に生漆きうるしを塗り、その後の作業をしやすくする。そのための前処理である。

 リューターや粗めのやすりで割れ断面の角を削る。

 生漆を綿棒に取り、割れの断面に薄く塗る。ゴム手袋を着用することを忘れない。

 ウエスで余分な漆を拭き取ったら、漆風呂で寝かせる。

 湿度計で漆風呂の温度と湿度を確認し、透は天井を仰いで溜息をついた。

 作業がひとつ終了すると溜息をつくのは、透の癖だ。

 ただ、今日は、違う溜息が出た。

「架月かー」

 高校の入学式は、昼頃から行われる予定だ。

 征樹がメール添付してくれた案内には、架月の高校は隣の県の私立と書かれていた。

 地図上では透の自宅から近そうに見えるが、山を下りて迂回しなくてはならないため、かなりの距離がある。車でも片道1時間はかかりそうだ。

 作陶もやりたいところだが、梱包した作品を発送しなくてはならないので、もう作業の時間は無い。

 アトリエを閉め、出かける準備をすることにした。

 スーツもネクタイも、前もって準備してある。大学を卒業して就職したものの、早々に社会人から脱落した透は、スーツもネクタイも数多く持っていない。

 ネクタイは、遠目から白色にしか見えない桜色のものを選んだ。桜の花が刺繍されている。亡き母が、大学進学祝いに買ってくれたものだ。

 そういえば、架月に入学祝いを渡した方が良いだろうか。何も考えていなかった。何が良いだろう。何なら喜ぶかな。

「架月かー」

 何度目かわからない溜息は、久々に会う架月への期待に変わっていた。

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