第22話
ハンバーグで腹を満たした、次の日。起きようとした透に、天使が耳元で囁いた。
「俺は大丈夫。おにいちゃんはゆっくり寝ていてね」
横向きで寝ていたところを、背中から抱きしめられ、その心地良さに、透は再び
「架月……!」
ベッドは、もぬけの殻。パジャマは丁寧に畳んで枕元に置かれ、制服は無い。キッチンのテーブルには、ラップに包まれたおにぎりがふたつ、皿の上でおかしこまりしている。片手鍋には油揚げとなすの味噌汁。
透は慌てて外に出た。架月の姿は、どこにも無い。カーポートの下に置いているはずの、滅多に使わない
家に戻り、架月の高校に電話をかける。電話に出たのは、担任の富田睦美教諭だった。
『勝呂さん、どうしました?』
澄ました声に少々苛立ったが、正直に訊ねる。
「架月はそちらに来ていますか? 本人につながなくて大丈夫です。登校しているか確認してもらえれば」
『来ていますよ。朝、会いました。本人に替わりましょうか?』
「いえ、結構です」
安否確認し、透は電話を切った。今日は「ほうがの里」の勤務日だ。味噌汁を食べ、おにぎりを大きなハンカチに包み、着替えて出勤した。9時ぎりぎりに事務所に着き、タイムカードを切った。
「透くん、そんなに慌てて大丈夫? 何かあった?」
灯子が驚いて、パソコンから顔を上げた。
「ご心配には及びません」
透は立ったままノートパソコンの電源を入れてから、デスクの丸椅子に腰を下ろした。気の抜けた溜息をついてしまうと、灯子が水出しコーヒーを出してくれた。
「いえ、俺は」
謹んで断ろうとしたが、昨日も疲れを指摘された手前、ぼろを出すわけにはゆかない。
「すみません。いただきます」
蒸し暑さで火照った体に、アイスコーヒーが澄み渡る。一息ついたところで、灯子に言われた。
「月釜ね、キョコちゃんも来るって」
透は、コーヒーを噴き出しそうになった。
キョコさん、来るんですか。わざわざ
灯子の妹の三浦杏子は、透の師匠的な存在だ。仕事に失敗した透に陶芸の技術を教えたのが、杏子である。天才というより、鬼才。繊細な性格が反転するように、態度は強烈だ。弟子時代に透は何度も泣かされた。ただし、良い人ではある。
「考え……いえ、参加します」
「架月くんは?」
しまった。月釜のことを架月に話すのを忘れていた。
「キョコちゃんを架月くんに紹介したいのだけど」
「あー……うん」
透は返事に詰まった。杏子の毒気が強くて、架月が泣いてしまうかもしれない。実は繊細な者同士意外と気が合うかもしれない。どちらも想像がつく。
「本人に話してみます」
話は終了し、仕事を始める。
デスクワークをしながら、どうしても頭に
架月は、透が起きるはずだった5時に起きたのだろうか。スクールバスの発着所まで自転車で1時間では着かないはずだ。遅刻しないで登校していたようだから、バスの時間に間に合ったようだ。味噌汁をつくって、透のおにぎりまで用意して。架月は朝食を食べたのだろうか。おにぎりを持っていったのだろうか。
小さなミスを重ねて落ち込みながら、昼休みにおにぎりを食べた。中身は、ゴーヤの佃煮だ。よく透が入れる具材を真似したのだと思うと、微笑ましい。家庭菜園のゴーヤが採れたら、今年も調理して冷凍保存しておこう。今年は、架月にも工程を看てほしい。半月形に切っても大きなゴーヤが、煮詰まると小さくなる様子を、目を輝かせて見てくれるはずだ。架月に見せたいものが、たくさんある。子どものうちに体験してほしいことも、たくさんある。
架月は休日に同年代の子と遊びに行くようなことが無い。近くにクラスメイトなどがいないせいもある。逸樹と電話やメールをしているらしいが、自宅が離れているせいか、会ってはいない。透の家が山の中で電車もバスも不便であることも一因である。
自分が架月を束縛していないだろうか。本当は架月はクラスメイトと遊びたいのではないだろうか。彼女をつくりたいのではないだろうか。自分は架月にとって「重い」のではないだろうか。考え始めると、止まらない。
定時でタイムカードを切り事務所を出ると、しとしと雨が降っていた。考えても無駄だ。透は車に乗り、山道を降りてスクールバスの発着所へ向かった。
発着所となっているラーメン店の敷地内に、まだバスは到着していなかった。店舗の陰に透の自転車が立てかけられている。軒下であるお蔭で、雨に濡れていない。鍵は抜かれているから、架月が持っていると信じたい。
鍵のかけられた自転車を持ち上げ、車に運び、後部座席のシートを倒して自転車を乗せる。初めてやったが、奇跡的に入った。その後、普段入れっぱなしにしている傘を出した。
スクールバスが敷地内で停車し、ドアが開いた。数名の生徒が降りた後、架月の姿が見えた。白シャツにネイビーのニットベスト、ボルドーカラーとネイビーのストライプのネクタイ、チェック柄のダークグレーのスラックス。
架月は傘を差した透に気づくと、びくっと身を震わせた。その反応は、勝呂の家で暮らしていた頃を連想させた。
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