第23話

 架月は、明らかに怯えている。

「おいで」

 透は歩み寄って手を差し伸べたが、架月は固まったまま動かない。

「ほら」

 手を引き、傘の中に入れた。靴の先がぶつかる至近距離だ。

 架月は目を伏せる。唇がわなないていた。怒っていると思われている。怒っていないのに。怯えないで。怖くないよ。口に出したら、もっと怖がられそうだ。

「今朝は、ありがとう。架月のお蔭で、ゆっくり寝られたよ」

 架月は黙って首を横に振った。

「架月は疲れたんじゃないのか? 早起きして、料理してくれて、休まずに学校にも行って、本当に偉いよ」

 架月は俯いて黙って否定する。

「あんな山奥の家に住まわせて、申し訳ないと思っている。もっと街中だったら、友だちとも頻繁に遊べるはずなのに、自由にできなくて、本当に、申し訳ない」

 それも、架月首を横に振って、否定。

 巧みな話術やコミュニケーション能力があれば難なく和解できるのに、と透は自らの要領の悪さを悔いた。天を仰ごうとしても、見えるのは傘の骨だ。

 お手上げだと思ったとき、架月が身を寄せて腕をまわしてきた。

「おにいちゃん」

 耳元で声が絞り出される。

「少しだけ、こうしても良い?」

 耳朶がくすぐったく、しばし息を止めて耐えた。

 透は片手で架月の背中をさすり、肯定の意を示したつもりだ。架月は深く溜息をついた。背中と胸の動きが手に取るように感じられる。

「おにいちゃん、最近眠そう。迷惑かけちゃ駄目だって、わかっているのに、おにいちゃんを頼ることしかできない」

 眠そう。架月にも、そう思われていた。

「おにいちゃんの重荷になっているんじゃないかと思うけど、おにいちゃんのそばにいる時間が幸せで、俺は……どうしたら良いか、わからない」

 一歩下がろうとした架月を、透が片手で抱きしめて止める。

「架月は重荷なんかじゃない。俺も、架月と一緒にいる時間が幸せだと感じる。自分の健康管理は自分でできる。だから、これからも、架月の送り迎えをさせてほしい。俺が、そうしたい」

 うん、と架月が頷いたのが、わかった。その直後、弾かれるように身じろいだ。

「おにいちゃん、駄目だよ! こういうのは、彼女にやることなの!」

「え、そうなの?」

 もう、と架月は頬を膨らませ、抱擁から逃げた。

「おにいちゃん、帰ろう!」

「せっかくだから、ラーメン食べて行こうよ」

「お金がもったいないよ」

「架月とお食事したいな」

 いつもしてるじゃん、と架月は呟いたが、透が背中を押すと、素直に応じてくれた。

「俺、完食できないよ」

「ミニラーメンとミニチャーハンのセットにする? それとも、お子様ラーメンとか」

「おにいちゃん、俺をからかっているよね」

 架月はミニラーメンとミニチャーハンのセット、透は塩ラーメンと餃子を注文した。

 料理を待つ間、透は架月に月釜の話をしてみた。行きたい、というのが架月の返事であった。

「おにいちゃん、お抹茶を点てるの?」

「点てるよ。水屋……バックヤードみたいなところで」

「もったいない。格好良いのに」

「男がいるとお茶席に入りづらい人もいるんだって」

「織田信長だって茶道をやっていたのに?」

 さすが、博識。偏差値の高い私立に入学しただけある。

「まあ、色々事情があるんだ。それと、キョコさん……三浦杏子というお姉さんも来るんだけど」

 初めて透の口から出た女性の名に、架月の目が輝いた。

「言っておくけど、彼女とかじゃないよ。キョコさんは、陶芸の師匠みたいな人……人当たりがきつくて、何度も泣かされた」

 架月の目が、困惑の色を帯びる。

「でも、根はお人好しの良い人だよ。キョコさんのお蔭で、俺は陶芸と金継ぎに出会えた」

 注文した料理が運ばれてきた。話を打ち切り、架月は熱々のラーメンを恐々口に入れる。餃子をチャーハンに乗せてあげて、無邪気な食べ方を見ているうちに、透は10年近く前のことを思い出した。

 大学を卒業した透は、地元の信用金庫に就職した。自力で頂いた内定だったが、県議会議員である叔父、勝呂征樹のコネで就職したと思われ、周りの行員からは冷たく当たられた。「甘やかされて生きてきただろうから、社会の常識を見せてやらなくちゃ」そのように豪語され、有言実行された。教え方は雑で、お客様が居ても叱責される。男尊女卑の強く残る田舎であることを逆手に取られ、お茶汲みや窓口業務を増やされ、男のくせに気持ち悪いと言われるように仕向けられた。手当ての出ない時間外の残務も強いられた。

 心身共に疲れ果てた透は、入職から半年足らずで起床できず欠勤してしまい、その1日がまるで長期間に渡るかのように上司から本店に報告され、さらには1か月前から退職の意があって書類を書いて受理が済んだことになっていた。透は自分の意思とは関係なく、自己都合による退職にさせられた。

 職を失ってしばらく経ってから、たまたまフリーペーパーで地元出身の陶芸家の紹介を見た。地元を離れて栃木県の益子町に築窯したという女性が、三浦杏子だった。

 ただ一人旅をするつもりで益子町に行き、観光のつもりで杏子のアトリエを訪ねたところ、彼女の第一声が「覗いてんじゃねーよ!」だった。それでも、何を思ったのか、透に土を練らせ、ろくろを回させ、そうこうしているうちに住み込みで弟子扱いしてくれた。杏子は人当たりはきついが、時間をかけてカウンセリングのように透の話を聞いてくれた。

 陶芸をしているうちに透は金継ぎに興味が湧き、杏子から金継ぎも教わった。ただ、杏子は金継ぎに関して本腰を入れていたわけではないので、透は漆職人にも師事した。

 杏子の元に身を寄せてから5年後、杏子の姉の森田灯子が責任者を勤める「ほうがの里」で臨時職員を募集していると杏子から聞いた。その市は、透や杏子の生まれ故郷でもある。「ほうがの里」は市の方針で陶芸工房が廃止になったが、無理のない範囲で社会とつながりながら、窯を持ったらどうか、と杏子に提案された。早い話が、追い出された。

 地元に戻った透は、「ほうがの里」の近くの改装された古民家を借り、アトリエを建て、杏子から引越祝いの電気窯が贈られた。とんでもない引越祝いであった。

 就職先から手酷く蹴落とされたが、手を差し伸べてくれた人達とは、今も交流がある。

「ごちそうさまでした」

 時間をかけて架月は完食し、箸を置いた。

「偉い偉い」

「また子ども扱い」

 帰宅し、銀継ぎの仕上げを架月に見せた。目を輝かせてくれるところが、また可愛らしい。だが、透が思っているより大人になろうとしているのかもしれない。嬉しくもあり、寂しくもある。

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