第25話

 水屋に水道があるわけではない。給湯室から、あらかじめ大きな薬缶やかんにキープしておいた水が途中で少なくなり、透が給湯室まで給水に行くことにした。

 薬缶をふたつ持とうとした透に、架月が、俺も、と片方持ってくれる。

「おにいちゃんに、重いものを持たせられない」

 一緒に給湯室まで行き、水道の蛇口はひとつだけなので、ひとつずつ水を注ぐ。

「おにいちゃんは、いつから茶道をやっているの?」

 珍しく、架月から話題を切り出し訊ねてきた。

「やっていた、かな。益子から地元ここに帰ってきて、開窯の準備をしながら、トコさんと同じお教室に通っていたんだ。うちが山の中だから、お教室まで距離があって、通うのが大変になって、やめちゃった。情けない話で、ごめんね」

「情けない、なんてこと、無い。おにいちゃんは、素敵だよ」

 みるみるうちに、薬缶に水が溜まってゆく。透は蛇口に手をかけて水を止めようとしたが、もう少し入れられると思い、手を引っ込めた。

「おにいちゃん、俺……」

 大きな目を、こぼれ落ちそうなくらい輝かせる架月を、透はまっすぐ見られない。

「あの、俺……お」

 架月の手が、透の顔に触れる。黒目がちな瞳が涙をたたえてうるみ、桜色の薄い唇が、ためらいがちに開かれた。

「おにいちゃんが好き」

 薬缶の水が、すれすれまで溜まる。

 顔を寄せられ、にわかに唇を重ねられた。熱を持った吐息が口の端からこぼれる。この感覚を、透は覚えていた。間違いない。中学生だった架月を泊めたとき、寝ながら感じた感覚だ。あのときもこうにされたのだと、透は確信した。

 薬缶から水があふれた。

 架月はよたよたと下がり、大粒の涙をこぼした。手の甲で拭おうとするが、間に合わない。崩れるように膝をつき、掠れた呼吸を繰り返す。

 透はしばし呆気にとられてしまったが、我に返り、傍らに膝をついて架月の背中をさする。普段の声量よりも大きい嗚咽が給湯室に響く。架月を包むように前から抱きしめ、身を寄せた状態で背中をさすった。

「お、おにいちゃん、ごめんね。本当に、ごめんね」

 透は黙って首を横に振った。とにかく今は架月をなだめなくては、と思い、感情整理は後回しだ。

「……こんなことだろうと思った」

 アニメ声が割り込み、透は顔を上げて焦った。杏子に見られた。

 杏子はしゃがみ込み、どいて、と透に鋭く言い放った。透が条件反射のように給湯室の壁際まで離れると、杏子は架月の背中を大きくさする。

「おにいちゃんが大好きなんだね。わかるよ」

 架月が頷いた。

「わかるよ。おにいちゃんは格好良いもんね」

 架月が何度も頷いた。

「我慢しなくて良いんだよ。おにいちゃんは、あんたのことを気持ち悪いなんて思っていないから」

 架月が顔を上げた。

「わかるよ。あたし、エンパスだから」

 架月が、きょとんとして、泣き腫らした目で杏子を見つめる。

「てか、透さ、水道止めたら?」

「あ……すみません」

 透は水道の蛇口を止めた。

「薬缶、ひとつで充分みたい。もうお菓子が少ないんだって。あと一席やったら、おしまいにするって、先生が言っていたわよ」

「じゃあ、ひとつだけ、持って行って……」

「行きなさいよ。お湯、沸かせられないから」

「すみません、行きます」

 あふれた水を少し払い、透は水屋に戻った。

 しばらくして、杏子に付き添われて架月も戻ってきた。杏子に笑顔を見せている様子を見て、透は安堵した。あのまま壊れたように呼吸困難になったらどうしようと思ったのだ。

 お客様が全員帰り、少し御菓子が残った。先生と生徒で薄茶を一服してから片付けることになった。時間は、正午。今日はいつもより早く終わったらしい。

「透」

「無茶です」

 杏子に名を呼ばれただけで、透は察した。

「俺、風炉点前覚えてないです」

「大丈夫。あたしが半東をやるから」

 透は息をのんだ。プレッシャーしか無い。

「架月に格好良いところを見せつけなさい」

 透は渋々頷き、自分の袱紗挟みから紫色の袱紗を出してベルトにつけた。

 架月は、主客の席を勧められ、断れずに座ってしまった。

 やば、超近いじゃん。不意打ちの口づけを思い出し、まともに顔を見ることができない。

「なにを照れてんのよ。中学生かよ」

 杏子に毒づかれ、透は風炉点前を始めた。

「ちゃんと覚えてんじゃん」

 隣で控える杏子が、ぼそっと呟いた。

 架月は、借り物の楊枝で、「水の面」を美味しそうに食べる。透がお茶を点てて出すと、隣の人に作法を教わりながら平茶碗に口をつけた。苦そうに顔をしかめ、透は思わず笑ってしまった。

 お点前が全て終わり、主客総礼。撤収作業が始まる。

「透、ちょっと」

 杏子に呼ばれ、透は廊下に出た。

「あの子、あんたの気持ちが向いてないとわかっていたわよ。でも、これからもあんたと暮らしたいって。迷惑でなければ、と付け加えていたけど」

「すみません。巻き込んでしまって」

「あんたは? どうなの?」

 架月の告白は、予想外だった。なぜ俺なんかが、という自虐と、接吻という行為が久々だったという事実と、自分の気持ちを整理して今後のことを考えなくては、と色々なものが頭の中をぐるぐる回っている。

「架月のことは可愛いと思います。迷惑だなんて、思いません。でも、俺なんかと一緒に居て、架月に悪い影響を与えないでしょうか。もちろん、手を出すつもりは無いです。架月には将来があります。彼女をつくって、結婚して、子どもを育てる未来だって、あるんですから」

「悪い影響? あの子は受けてないよ。ラーメンを食べたり、ボランティアをしたり、野菜を育てたり、初めての体験をたくさんさせてもらったと喜んでいたわよ。あんなに純粋な好意は、今まで感じたことがない。強いてあたしが言いたいのは、あの子の気持ちを踏みにじるようなことはしないでほしいってことくらいかな」

「気持ちを踏みにじる」

 未だに一緒のベッドで就寝していることを話したりなんていないだろうな。それは悪い影響なのでは。気持ちを踏みにじっていないだろうか。杏子に訊くわけにゆかず、察知されるのも怖いので、透は杏子から若干離れた。

「あの子を大切にしてあげて。あの子は同年代の子よりも寂しい経験やつらい境遇に身を置いていたみたいだけど、あんたに大分救われているわ。あんたの良いところを吸収して成長したあの子に、あたしはまた会いたい」

 杏子は着替えのために、空き部屋に向かった。

 透はお茶室に戻り、屏風や重いお道具を箱にしまって先生の車まで運ぶ。架月も、お茶碗など小さいお道具をしまうのを手伝ってくれた。

「透くん、ありがとう。架月くんも、おつかれさま」

 杏子の強烈な個性のせいで影が薄くなっていた灯子とも、全員解散の時点で別れた。

「架月」

 車の助手席を空け、架月を手招きする。

「一緒に帰ろう」

 架月は気まずそうに一歩下がり、透は架月の手を引いた。

「おにいちゃん……素敵すぎるだろ」

 架月が呟いた。

「お昼食べて行こうか。この辺に、昔ながらの喫茶店があるよ。ナポリタンとか、カレーとか、食べられるんじゃないかな」

「ナポリタン、食べたことない」

「じゃあ、決まりだな」

 透は運転席に座り、スマートフォンで喫茶店の情報を確認する。架月がじっと透を見つめ、顔を綻ばせていた。

「どうしたの?」

「キョコさんの言うとおり。主夫みたいに気が利いて働くから、うっかり惚れそうになる」

「キョコさんがそんなこと言ったのか!?」

「うん。キョコさん、優しい人だね。近くの人の気持ちがうつってしまうって、大変なのに」

「架月はキョコさんが好きなの? 俺より10歳年上だよ」

「俺は、お……」

 架月は口を結び、照れて俯いてしまった。

 迷惑なんかじゃないよ。初めてナポリタンを食べる架月を見てみたい。そんなことは言えず、透は車のエンジンをかけた。

 梅雨明けは、間近に迫っている。

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