第26話

 7月半ば。梅雨が明け、本格的な夏が到来した。この時期が来ると、透は金継ぎを一旦終了することにしている。漆を硬化させる温度と湿度を保つには、常時エアコンを稼働させなくてはならないからだ。そこまで光熱費に使える金が無い。そのため、適切な温度と湿度になる秋まで、金継ぎはお休みだ。

 今日は、今期最後の金継ぎの作業。ガラス継ぎである。

 割れの断面に金箔を施してから麦漆で破片を接着し、漆が足りない部分は錆漆で埋めた。余分な漆をカッターで削り、金粉を蒔く。一晩漆風呂で寝かせたら、磨きを施して終了だ。

 緊張状態から解放された透は、深く息を吐いてから、時間を確認した。10時を過ぎており、仕事をすっぽかしたと焦ってしまったが、そもそも今日は休みである。朝、スクールバスの発着所まで架月を送り、とんぼ返りで作業をしていたのだ。

 架月は、1学期の期末試験の最終日だ。3限目で試験が終わると、そのまま放課になる。

 透は架月の試験を配慮し忘れ、月釜に参加させてしまった。架月もまた、そのことを何も言わなかった。勉強する時間があっただろうか。成績は大丈夫なのだろうか。心が乱れて勉強どころではなかったら、どうしよう。おそらく、本人よりも透が不安になっている。

 ハンドメイドのフリマアプリから、商品が購入されたと通知が来て、詳細を確認する。3連の調味料用小皿と、ビーズセットが「sold out」になっていた。ビーズは、粘土を小さく丸めて穴を開け、釉薬や簡単な模様を施したものだが、意外と売れる。少しでも収入につなげたいので、貴重な収入源となっている。

 「ほうがの里」の仕事の方は、試しに今月は出勤日を2日増やしてもらった。無理して倒れそうなら勤務日数を元に戻すからね、と灯子に釘を刺されてしまった。倒れる素振りを見せるわけにはゆかない。

 小皿とビーズセットを梱包し、頭の中で時間を計算した。今から家を出れば、寄り道しても間に合う。うん、間に合う。何にって、間に合うのだ。

 架月にメールを送ってから家を出て、山を下り、コンビニで荷物の発送手続きをすると、11時。それから寄り道をして向かったのは、高校の駐車場だ。

 運転席の窓ガラスが、こつん、と控えめに叩かれ、架月がこちらを覗いていた。透は窓を開け、おつかれさま、と声をかける。

「おにいちゃん、どうしたの?」

「メールした通り、用があったから、ここまで来たんだよ」

「そろそろスクールバスの時間なんだ。じゃあ、また後で」

「ちょっと待って! 迎えに来たんだよ!」

 運転席から身を乗り出して助手席のドアを開けると、架月はためらいがちに乗り込んだ。

「エアコン、弱くない? 涼しくしようか」

「寒いくらいだよ」

「お腹空いただろう。これ、テイクアウトしたんだ。食べり」

 高校の駐車場に向かう前に寄ったのは、大手コーヒーショップのチェーン店。味噌かつサンドと海老フライサンドをテイクアウトしてから、こちらに来た。透が大学生の頃から「逆ボリューム詐欺」と話題の店で、メニューの写真よりも料理の量が多いと言われていた。この辺りにも店舗展開していたと噂を聞き、架月にも知ってもらいたかったのだ。

 架月はプラスチックパック越しに2種類のサンドを見つめ、目を見開いて驚いていた。

「初めて見た。クラスメイトの話題にも上がらない」

「お店が駅から離れているからかな」

「おにいちゃん、何でも知っているね」

「そうでもないよ。じゃあ、帰るか」

 駐車場を出て、帰路に着く。

 月釜の後、透も架月もあの話題には触れていない。そろそろ夏休みになり、架月は家にいることが多くなる。中途半端に先送りするのはよろしくないが、話が切り出しづらい。

「あのさ、架月」

 赤信号で止まり、透は話を切り出したのだが、架月が口早に遮った。

「おにいちゃんを困らせちゃったね。ごめんなさい」

 テイクアウトしたサンドのレジ袋を膝に乗せたまま、架月は開けようとしない。

「おにいちゃんの気持ちとか立場とか、世間体とか、モラルとか、そういうものを考えずに俺の気持ちを押しつけちゃった。返事なんか、できないよね。本当に、ごめんなさい」

 信号が青になった。架月の表情を見る前に、車の流れが再開してしまう。

「返事、しなくて良いよ。俺はまだ、ここに居たい。俺が言ったこと、忘れて。でも、やったことは痴漢行為になるのかな」

 ちらっと、架月を伺うと、大きな瞳から涙がこぼれていた。

「違う、違う。こんな話をするつもりじゃなかった。あのね……おにいちゃん!」

 運転しながら笑いをこらえたことに、気づかれてしまった。綺麗な涙を流しながらの痴漢行為発言が、おかしかったのだ。笑ってはいけない告白だから茶化してはいけないと、わかっているのに。

「ごめん、ごめん。続けて」

「うん。俺、茶道部に入りたいんだ。駄目かな」

「良いじゃん。先生から許可が出れば、やってみなよ」

「でも、スクールバスの時間が遅くなっちゃう。お金もかかるし」

「部活は曜日が決まっているんだよね。その曜日に、バスの時間に迎えに行くよ。お金は、お月謝?」

「顧問の先生に話を聞いたけど、袱紗挟みを買うのにお金がかかるって。月謝は、取らないみたい。1学期の活動は終わってしまったけど、2学期からお稽古を始めても、文化祭には間に合うって」

 自分がやりたいことを、架月は初めて話してくれた気がする。それも、自分でしっかり詳細を確認している。

「文化祭、お茶席やるの?」

「うん。1年生も点てるんだって」

「行きたい。架月が亭主をやるお席に、潜り込みたい」

「大げさだよ」

 架月は、まんざらでもなさそうに微笑んで目を伏せた。

 赤信号の無いところで、車の流れが止まった。以前から道路工事をしており、片側1車線になっているところだ。黙したまま5分が経過したが、車の流れは止まったままだ。

「おにいちゃん」

 架月がプラスチックパックを開け、カットされた味噌かつサンドを取り出した。

「どうぞ」

「ありがとう。優しいね」

 透は手で受け取ろうとしたが、渡してもらえない。架月は、察して、とばかりに眉根を寄せた。

 透は少々ためらったが、顔を近づけて口を開けて待機した。架月は顔を綻ばせ、味噌かつサンドを透の口に運ぶ。透は大口で受け取り、落ちないように歯で噛んでから、手で受け取った。千切りキャベツが、ぼろぼろと落ちる。シートの隙間から落ちそうなキャベツを拾おうとすると、前の車が動き出し、残りの味噌かつサンドは無理矢理口に入れた。

 待ち合わせて、車に乗せて、美味しいものを食べさせてもらって、カップルみたいだな、と透は思ってしまった。寝込みにキスされたかもしれないこと、月釜のこと、思い出すと体が覚えているように熱を帯びてしまう。これからも、ふとした瞬間に思い出してしまうだろう。そのたびに、歳の離れた未成年を意識している自分と、返事を先送りにしているという事実も、思い出すことになる。でも、やはり単純に、一緒に過ごしたいのだ。

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