第4章 欠けた月を夜で埋めて
第27話
暑さで目が覚めるのは、1時間後、2時間後、4時間後のいずれかである。扇風機のタイマーの設定時間と同じだ。透は、扇風機の風が止まると目が覚めてしまう。子どもの頃は、窓を開けていれば真夏でも普通に寝られていた。
エアコンは苦手だ。日中はエアコンの風が気持ち良く感じられるが、心が休まらない。しっかり休息を取りたいときは、エアコンも心もオフにして「夏の神器」にすがるのだ。
外はもう、明るい。
目覚まし時計代わりのスマートフォンで時間を確認すると、そろそろ5時になろうとしていた。就寝は昨夜の23時。扇風機のタイマーは4時間に設定した。3時前に目が覚め、2時間にタイマーを設定した。体は正直だ。扇風機が止まった途端に暑さを思い出して目が覚めた。
近年は、扇風機、塩枕、ひんやりシーツがなければ快眠には程遠い。透は、この3点を「夏の神器」と命名している。それと、もうひとつ。
「おにいちゃん……動けない」
「架月は、もう少し寝ていなさい」
セミダブルのベッドに寝転がったまま、背中から架月を抱きしめる。間違っても、「抱く」ようなことはしない。自分が性癖のヤバい奴になった気もするが、人の体温を体で感じていると、安心する。この子がここに居てくれる。いつの間にか消えてしまうのではないかという不安が和らぐ。
架月が寝静まったと判断し、透は起床した。今日は「ほうがの里」に出勤する日だ。その前に、やりたいことがある。
家庭菜園の手入れをして野菜を収穫すると、キッチンに立って新品の強力粉と全粒粉を開封した。砂糖、塩、イースト、サラダ油も準備し、計量する。プラスチックボウルに材料を入れ、ぬるま湯を注ぎ、木べらで混ぜる。粉っぽさがなくなると、うどん打ちにも使っている木の台に生地を出し、プラスチックグローブをつけて捏ね始めた。
「おにいちゃん!?」
ばたばたと荒い足音をたて、架月が転がるように来た。
「すごい音がしたよ。おにいちゃん、大丈夫?」
「ああ。パン生地を捏ねているんだ」
「そう、だったの……」
架月は、ほっとしたように、床に座り込んでしまった。
「架月も、やってみる?」
「やって良いの?」
黒目がちの大きな瞳が、光を受けて輝く。架月はプラスチックグローブをつけると、おそるおそるパン生地を手のひらで押してみた。顔が綻び、ふふ、と嬉しそうな声が漏れた。
「始めは、生地を伸ばす、のばしごね。生地が台から離れるようになってきたら、アルファベットのVを描くように捏ねるんだよ」
はい、と架月は頷いた。架月の手つきを見て、可愛い顔をしているけど男の子なんだな、と透は思った。力があり、力の入れ方も上手い。透が口を出そうとしたタイミングで、パン生地をVの字に捏ね始めた。生地を薄く伸ばしてグルテン膜が形成されるのを見せると、架月は興味津々だった。
パン生地を丸めてボウルに入れ、乾燥しないようにラップをかけて1次発酵をする。オーブンの発酵機能が理想だが、この気候では、室温で自然に発酵が進む。1次発酵の間に、使わない道具を洗い、さらに時間が余ったので、熱い緑茶と冷たい麦茶を飲みながら、架月にきゅうりの丸かじりを教えた。金山寺味噌を添えてあげると喜び、蜂蜜を勧めると断られた。
パン生地が2倍に脹らむと、フィンガーテストという、発酵できているかの確認をする。指で生地を押して、戻ってこなければ発酵できていることになる。生地を押してガス抜きをし、スケッパーで3等分する。丸め直し、濡れ布巾をかけ、10分休ませるベンチタイム。その間に、1.5斤の食パン型の内側にサラダ油を塗った。
「おにいちゃんのパンは、こうやってつくられるんだね」
「俺のは、かなり我流だよ。バターをケチって、サラダ油を使っている。全粒粉を混ぜるのも、強力粉を節約する」
「考えながらつくっているんだね」
ベンチタイムが終わると、パン生地を円形に伸ばし、くるくる丸めて食パン型に入れた。その後、2次発酵。こちらも室温で行う。
「何のスープをつくるの?」
「ミネストローネだよ」
朝採れのトマトをたっぷり入れたミネストローネを片手鍋でつくりながら、隣のコンロでは、なすやズッキーニを乱切りにしたラタテュイユを煮る。
オーブンの予熱を入れ、予熱完了のアラームが鳴ると、食パン型に蓋をして、オーブンに入れた。焼き時間を20分に設定し、焼成をスタートさせる。
「おにいちゃん、すごい。パンを焼いちゃうなんて」
「こだわりが強いだけだよ」
「食器も手作り」
「失敗作が多いからだよ」
フライパンでベーコンエッグとアスパラガスを焼き、大きめの平皿に出して、アスパラガスとミニトマトを添えた。皿は、透の作品だ。売り物にならないものを普段使いにしている。
オーブンのメロディが鳴り、パンが焼き上がる。型から出し、ケーキクーラーに乗せ、冷ます時間が惜しくて端から2枚切ってしまう。
「遅くなって、ごめんね。食べようか」
「うん。いただきます」
架月は、目を輝かせて食べてくれる。透は、それが嬉しく、この瞬間が愛おしい。写真に映えないような無骨な料理しかできないが、架月は文句を言わず、喜んでくれる。透を褒めてくれる。
朝食後、架月が洗い物をしてくれる間に、透は出勤の準備。ミネストローネをスープジャーに入れ、お弁当にした。架月が玄関まで見送ってくれる。
「架月、頼ってごめん。パンは」
「粗熱が取れたら、切って冷凍庫」
「ラタテュイユは」
「タッパーに入れて冷凍庫」
「エアコンは」
「つけません」
「つけましょうね」
しばし間が空き、架月が遠慮がちに抱きついてきた。
「行ってらっしゃい」
透は架月の背中に腕をまわし、軽く叩いた。
「行ってきます」
もしかして、自分はヤバい奴になってしまったのではないか。一抹の不安を抱いた。
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