第28話

 滴るような緑に囲まれた山の中で、人々のはしゃぐ声が弾む。

 子ども達が夏休み期間になる今、「ほうがの里」は書き入れ時だ。

 毎年、夏休みに合わせて、期間限定の工芸体験イベントを開催している。

 敷地内には、バーベキューができる広場があり、近くの川に下りることもできる。

 夏休みの工作とバーベキュー、両方を楽しむことができるのだ。

 透はといえば、通常の事務作業や電話応対に加え、バーベキュー広場のお客様に呼び出されて、火おこしの手伝いやピザ窯の使い方の説明、後片付けの確認という雑務に追われる。接客は致命的に苦手だが、苦手意識を感じる暇もない。

 透は今日も午前中から園内を駆け回り、気がつくと昼休みの時間になっていた。事務所に戻り、冷凍庫にストックしていたクッペを電子レンジで解凍し、水出しコーヒーを用意した。デスクに置き、スープジャーのミネストローネで昼食にする。

「最近、架月くんはどうしてるの?」

 灯子に訊かれた。

「キョコが最近、電話で訊いてきたのよ。昔から、メールで無難な話しかしない子だったのに」

「キョコさんなりの照れ隠しですね」

「そうね」

 ふたりして、いたずらっぽい笑いが出た。杏子が架月を気に入ったのは、透も知っている。杏子はあまり知られたくないようで、文面が残るメールで架月のことを話したくなかったようだ。

「茶道部に入りたいって、言っていました。活動は2学期からですが、入部手続きは済ませたそうです」

「偉いわね。若いのに、しっかりしている」

「本当に、そうです。月釜の直後に期末試験があったそうですが、月釜は試験勉強に影響しなかったみたいです。頭が良いし、勉強の要領も良いんですよ。試験の後に、科目ごとに夏休みの宿題が配られて、夏休みに入る前にほとんど終わらせてしまったんです」

「え」

 灯子は反応に困ったように固まった。

 透も、あれを目の当たりにしたときは、驚いた。架月が隙間時間に手帳サイズの参考書や単語帳を読む姿はよく見るが、ノートを広げていかにも勉強する姿をあまり見せない。

 透が夜遅くまでアトリエで作陶してしまい、夜中に家に戻ったことがある。暑さの薄いテキストを居間のローテーブルに広げていた架月は、慌てて片づけようとして、手がすべって透に投げてしまった。透が顔で受け止めてしまったのは、教師お手製の世界史の問題集だった。しかも、その時点で残り1ページになっていた。

 透から隠れるように、普段の勉強とフライング夏休みの宿題をやった結果、夏休みの終業式には、英語の大量の和訳テキストと読書感想文しか残っていなかった。フライングで夏休みの宿題を片づけようとした理由は、「おにいちゃんを幻滅させたくなかったから」。しませんよ、普通。

「しかし、まあ、透くんは変わったわね。以前は、いつ消えてもおかしくない孤独な人、みたいだったのに、今は架月くん中心の生活になって、生き生きしている」

 灯子に指摘され、透は、そうか?と首を傾げたくなった。架月中心の生活、というのはわかるが、生き生きしているのだろうか。

「架月に生かされているんです。俺は」

「お互い影響し合っているのね」

 それは、そうかもしれない。自分の内から生きる力が沸いてくるというより、架月が透を生かしてくれている。

 昼休みの終わり際に、征樹からメールがあった。

『お盆に勝呂の家で夕食の席を設けたいが、ふたりは来るか? おじさん達の目もあるから、無理にとは言わないが、逸樹は架月に会えるのを楽しみにしている』

 親戚の目と息子の期待の板挟みになっている様子が伺えた。返事には時間がかかりそうだ。

 灯子も自分のスマートフォンを見ながら、眉根を寄せる。

「うちの子がね、駅前の夏祭りに行きたいって、メールしてきたの。前もって言ってくれっての」

「夏祭り、今日でしたか」

 透には縁がないが、昔から、駅前の夏祭りは子ども達の一大イベントだ。駅から少し離れた河川敷から大きな花火も上がるため、テレビで紹介されたこともある。透はすっかり忘れていたが。

「そっか。夏祭り」

 仕事が終わり、帰宅すると、架月は居間で腹筋ローラーをしていた。

「おにいちゃん、おかえりなさい」

「ただいま」

 エアコンをつけず、窓は開けているが暑苦しい。

「エアコンをつけなさいって、言いましたよね」

 架月は、びくっと身を震わせた。透が敬語を使うときは怒っていると思っているようだ。

「電気代が」

「電気代より、架月が心配」

「俺なんかより、お金」

「架月に何かあったら、俺は気が気でなくなる」

 架月の頬を手のひらで包むと、かなり熱を持っているのがわかった。架月は目を見開いて、形の綺麗な唇を結ぶ。透は唇の動きを見てしまい、その唇に自分の唇を重ねる妄想をしてしまった。間違って妄想を実行に移してしまわないように、透は気持ちを切り替えて用件を伝える。

「架月、デートしよう」

 架月が呆気にとられたように、ぽかんと口を開いてしまった。

「駄目?」

 駄目じゃないけど、と架月は呟く。目がうろたえている。もう一押し。

「架月と、夜景の綺麗な場所でディナーしたいな」

 熱を帯びた頬が紅潮し、目がうるむ。仕方ないな、と架月は呟いた。

「おにいちゃん、ずるい」

 文句をつける声が甘えていた。その声が琴線を掻き鳴らす気がしたが、透は気のせいということにした。

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