第29話
「決まりだな」
透はエアコンをつけ、キッチンの冷蔵庫から梅シロップの瓶を取り出し、習作のビアジョッキに注いで氷で割った。架月にそれを飲ませてから、さっぱりしておいで、とシャワーを勧めた。
透も梅シロップのジュースで喉をうるおし、出かけるために準備をする。必要なものが防災グッズの中に入っており、図らずも防災用品の点検をしてしまった。ミネラルウォーターを買い直さないとならないと思ったとき、スマートフォンに電話がかかってきた。征樹かと思ったが、違う人からだった。
『保原……勝呂さん、お久しぶりです』
「いい加減慣れてくれませんか、富田先生。俺は慣れましたよ」
架月の担任の、富田睦美教諭からであった。透が教育実習生だった頃に教えていた生徒のひとりで、結婚して苗字が唐沢から富田に変わった。まさか教員になるとは、透も思わず、気まずいような喧嘩腰のような微妙な感じが今も続いている。
「何かありました? 成績とか、いじめとか」
『通知表も試験結果も、見ていないんですか? 模試の結果も』
「はい、まあ……見られたくないのかと思って」
『文句なしの好成績ですよ。クラスのトップで、酒々井千絵さんが悔しがっています。てか、その話じゃありません』
「じゃあ、何なんですか」
話を逸らしたのは自分だが、つい喧嘩腰になってしまう。
『私、茶道部の副顧問をしているんです。架月くん、茶道部に入部しましたよね。顧問の先生は何も言いませんが、余計なことなんですが気にしてほしいことがあって』
「良いですよ。何なんですか」
風呂場から架月が出る音が聞こえた。居間には顔を出さず、別の部屋に行ってしまう。
『9月末の文化祭で、茶道部はお茶会をやるんです。女子は着物でお点前をするのですが、男子の部員は架月くんが初めてで……顧問の先生は、まだ何も言っていないのですが……』
富田教諭は言葉を濁した。透は急かさずに次の言葉を待ったつもりだが、富田教諭は、察して下さい、と声を荒げた。
『男子も着物で参加するように、と言われても対応できるように、準備してほしいんです! まだ決定ではありませんし、私が勝手にお願いしたいだけなのですが』
「わかりました。叔父……あの子の父親が着物を持っていると思います。男子だと、袴も必要ですよね。確認してみます」
『ああ、はい……助かります』
「先生こそ、架月のことを心配してくれて、ありがとうございます」
『いえ、生徒の心配をするのは、教師として当然ですから』
「忙しい中、ご連絡ありがとうございました。では」
富田教諭は何も言ってこないので、透から通話を終了した。それにしても、架月が戻ってこない。エアコンの効かない場所で何をしているのかと思ったら、服を広げてコーディネートを考えていた。その様子が、初めて女の子とデートするときの自分と似ており、透は苦笑してしまった。
「あっ、おにいちゃん」
「洒落込まなくて良いよ」
夜景を見ながらディナーなんて意識高そうなことを言ってしまったが、期待されると申し訳なくなる。
架月は、半袖の黒い開襟シャツとアンクル丈の白いボトムス、ベージュのスニーカーを選び、お待たせ、と声を弾ませた。
「どこに行くの?」
「まずは買い物」
車で山を下り、スーパーのお惣菜コーナーで焼きそばや揚げ物を選ぶ。飲み物も忘れない。その後向かうのは、透の思い出の場所だ。
郊外の田園地帯にある、貯水池。その上を道路が通っているのだが、道路の脇に車が停まれるスペースがあり、
向こうの山の麓は県庁所在地であり、県内で一番栄えている。その辺りの明かりが夜景となり、彩っていた。それに加え、今日は駅前の夏祭り。花火も上がり始めた。
「架月、こちらにおいで」
透は東に架月を招き、家から持ってきたラジオをつけた。あらかじめ県内のラジオチャンネルに周波数を合わせておいたため、音声がなめらかに聞こえる。ラジオ番組では、花火の中継が放送されていた。
スーパーで買ったお惣菜のパックを膝に乗せ、食べながら夜景と花火を眺め、ラジオに耳を傾ける。
「夜景を見ながらディナー」
架月が呟いた。
「こういうのは、彼女にやるものだよ」
「俺は、両親にしてもらった」
透は、太麺で甘辛の味つけの焼きそばを頬張り、昔のことを思い出した。両親の顔は、写真を見ないと思い出せない。けど、楽しませてもらったことは覚えている。
20年以上前の夏祭り。両親にこの四阿に連れてきてもらい、ラジオで花火の中継を聞きながら、花火を眺めた。夕食はここで食べなかったが、駅前の夏祭りに行かなくても味わえる贅沢を噛み締めた。父が脳出血で亡くなったのは、その翌年。四阿で見た花火は、両親との最後のイベントになった。灯子から夏祭りの話を聞いたとき、その思い出が蘇り、架月にも味わってもらいたいと思ったのだ。
「焼きそば、美味しい」
架月が呟いた。架月のは、正確にはオムそばだ。
「唐揚げもどうぞ。マヨネーズをかけると、屋台の味に近くなるよ」
「屋台の味なの?」
「屋台で買い食いしたことある?」
「ない」
「一度も?」
「皆無」
架月には、初めての食べ物が多い。架月は自分のことを全く話さない。児童養護施設にいた、と逸樹から少し聞いた。透から聞き出すようなことは、したくない。何となくだが、架月は年齢の割に寂しい人生を送ってきたような感じもする。杏子も似たようなことを言っていた。
「おにいちゃん」
ランタン型の懐中電灯の明かりで、架月が泣きそうな目で透を見つめているのがわかった。
「食べきれない」
「俺が食べて良い? オムそば美味しそう」
仕事終わりでかなりお腹が空いていた。子どもの残りご飯を食べる親みたいだな、と透は思い、妙にこそばゆい。
生温い風が吹く夏の夜。贅沢なこの時間がずっと続けば良いのに、と透は思ってしまった。
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