第41話
記憶はおぼろげで、いつ通話が終了したのか覚えていない。いつの間にか日が暮れ、居間のカーテンが閉められていた。キッチンの照明だけ点されていた。体を起こそうとして、掛布団をかけられていることに気づいた。頭の下に枕もある。スマートフォンで時間を確認すると、午前4時を過ぎていた。12時間も眠っていたのだ。
体を起こすと、頭の中に鉛があるかのように重く、ふらつく感覚があった。その辺のものに手をついてトイレに向かうが、眠気が覚めない。昨日の朝新しくセットしたばかりのトイレットペーパーは、すでにかなりの量が消費されていた。
シャワーを浴びる前に着替えを取りに部屋に向かう。架月がベッドで眠っているのを確認し、ほっとしてしまった。ここに居る。生きている。トイレットペーパーを大量に消費したのは、お前か。近づいて頬に触れたくなったが、昨日のことを思い出したくないので、やめておいた。毛布1枚で寝ていたので、その上から掛布団をかけておいた。枕も戻しておく。
脱衣場で息を吸い、違和感をおぼえた。他人に言ってもなかなか共感を得ないのだが、鼻の中の臭いが、風邪をひいたときの臭いなのだ。蓄膿症とは全く異なる臭いが自分の中にある。風邪のひき始めだ。そのうち寒気がしたり熱が上がるかもしれない。自分の体を見ないようにさっさとシャワーを浴び、服を着てから風邪薬を飲んだ。洗濯機をまわしていると、いつも起床する5時になっていた。
「……おはようございます」
架月が起きてきた。耳に心地の良いなめらかな声が、琴線をくすぐる。遠慮がちに目を伏せ、唇は真一文字に結ばれた。学校指定のダークネイビーのセーターの袖口から、細い指がのぞき、眠そうに目をこする。セーターのサイズが、細く薄い体に合っていない。
「おはよう、架月」
未成年に手を出した自分に、この子の保護者でいる資格は無い。それでも、登校しなくてはならないこの子の朝の世話はしなくてはならない。
「お布団をかけてくれて、ありがとう。寒かったんじゃないのか?」
「おにいちゃんが寒そうだったから」
「架月は優しいな」
架月は首を横に振り、否定した。
「おにいちゃんも、お布団をかけてくれた。ありがとうございました」
洗濯機のメロディが鳴り、架月は洗濯物を干しに向かう。その間に、透は朝食とお弁当の準備をした。架月は、塩パンを持って行くと言っていた。先日冷凍保存した、かぼちゃのポタージュを鍋で溶かして煮返し、スープジャーに入れた。ブロッコリーとカリフラワーを茹で、塩をひとつまみまぶした。朝食には、トーストと梅ジャム。冷蔵庫の残りもので副菜。
食事の最中も、スクールバスの発着所へ向かう車の中でも、最低限の会話しか交わせなかった。
「行ってきます」
架月は元気なく、バスに乗り込んだ。それを見送ってから、透は自宅に戻った。起き抜けよりも寒気がする。出勤時間ぎりぎりまで休もうと、スマートフォンのアラームを設定してベッドに横になった。泥の中をもがく夢を見て、アラームが鳴っても止めることができなかった。自分が思う以上に体の調子が悪い。気力を振り絞ってアラームを止め、不本意ながら「ほうがの里」に欠勤の連絡をした。枕元にスマートフォンを置き、また眠ってしまった。
次に目が覚めたのは、インターホンの音だった。少しは体が軽くなり、起き上がって玄関に向かい、鍵をかけ忘れた引き戸を開けた。
「征樹……!」
「透、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
ラフなジャケット姿の征樹が、そこにいた。
「なんで、征樹がここに」
「昨日の電話が気になって、来てしまったよ」
「仕事は」
「昨日のうちに前倒してやっておいた」
「……そうなんだ」
立っているうちに頭がふらつき始め、征樹に支えられてしまう。
「熱があるじゃないか」
「……薬が切れたかも」
「無理をし過ぎたんだな」
征樹に上がってもらい、居間に通す。解熱剤を飲んだが、お茶を淹れる気力が無く、座り込んでローテーブルに肘をついた。
「透、寝なさい」
「……そのうち薬が効くから、平気」
「そうやって気を遣うから、根を詰めるんだ」
征樹は、居間の隅に追いやっていた座椅子を見つけ、持ってきて透にすすめる。透は座椅子に座り、背中を預けた。
「昨日の電話、本当に申し訳なかった。俺は、架月にも征樹にも悪いことをしてしまったと思っている」
「面倒を見る資格は、というやつか?」
「はい」
なぜか敬語になってしまい、経緯を話すことも、ためらってしまう。話さなければならないとわかっているが、切り出し方がわからない。無言の時間が続き、ようやく思いついた言葉が、これだ。
「やっぱり俺は、あの父親の子だ。血は争えない。最低の人間だ。あの人以上にたちの悪い人間だ」
引き合いに出したのは、未成年の教え子に手を出して駆け落ちした、自分の父親のことだった。
「俺は架月に恋慕して、キスをしてしまった。だから、架月の面倒を見る資格は、俺には無い」
恋慕。架月に直接言ったことがない自分の想いを、初めて口外した。
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