第5話
架月は泣いていたんじゃないだろうか。そんな事を考えながら帰宅し、慣れないスーツで疲れたため早く就寝した。その分、翌朝は目覚ましのアラームより早く目が覚めた。
今日は仕事に行く日だ。その前に、金継ぎの作業を進める。
断面に漆を塗って乾燥させた皿の欠片に、麦漆を塗って接着させる。マスキングテープを貼って固定させ、漆風呂で寝かせる。次の作業は、1週間後だ。
深く溜息をつき、空腹に気づいた。
当初は素焼きの陶器に釉薬をかける作業も行うつもりだったが、今日は時間に余裕がない。
アトリエは閉め自宅に戻り、ポパイトーストと緑茶で朝食にした。
架月は朝ご飯を食べただろうか。学校には行けただろうか。家で酷いことをされていないだろうか。肩を押さえていたり、震えていたり、明らかに何かあった風であった。それに、叔母の態度も、普通ではない。
しばらくは架月と会うこともないだろうけど、気になり出すときりなく考えてしまう。
食後にコーヒーを飲み、新聞を読んでいると、昨日征樹が巻き込まれたと思しき事故のことが小さな記事になっていた。学校名は明記されていたが、勝呂征樹の名も、征樹がかばった生徒の名も伏せられていた。
あの事故がなければ、征樹は透に何か話していたはずだ。退院後に聞けば良いか。それとも、メールして促すか。
軽くメールしてみようとスマートフォンを取り出し、今の時間が目に入った。出勤まで時間がない。朝のうちに家庭菜園もやりたいのだ。
実は、昨日は仕事を休んで架月の入学式に足を運んだ。職場にお詫びを入れたいところだが、菓子折を買うのを忘れてしまった。代わりに、家庭菜園の野菜を差し入れすることにした。
午前8時半。透は車で自宅を出発し、アルバイトに出勤する。
自宅よりも山奥にひっそり佇む、工芸体験施設「ほうがの里」。市の管轄の施設である。透は、そこの事務員として非正規雇用で勤務している。
週4日、シフト制。夏場は、9時から17時。冬は16時まで。
もっと働けば良いのに、と笑う人もいる。でも、透にはこれが精一杯だ。
車で山道を上りながら、ドリンクホルダーに入れたままのクランチバーが揺れた。架月のために買ったのに、渡せなかった。
事務所でタイムカードを切り、持ってきた野菜を給湯室に置いたタイミングで、館長に話しかけられた。
「透くん、おはよう。昨日は大変だったわね。出てきて大丈夫なの?」
「ほうがの里」の管理者、森田
「トコさん、おはようございます。重ね重ねご迷惑をおかけして、申し訳ありません。大丈夫です。これ、心ばかりですが、皆様で召し上がって下さい」
透が自宅の菜園で採れた野菜を見せると、灯子は、慌ててしまった。
「そんな、気を遣わなくて良いのよ」
「いえ、自分は皆様にご迷惑をかけてばかりですし」
「そんなこと、ないわ。透くんが来てから、助かっているのよ。だから、気に病まないで」
灯子は、給湯室の冷蔵庫に常備しているゼリー飲料を出し、一気に吸った。
「あー、身に浸みる。朝ごはん、食べ損ねちゃったの。朝寝坊して、掃除して洗濯して朝ごはんをつくって、長女ちゃんを見送って、ゴミ出しして、気づいたら出勤する時間」
「トコさん……ハードですね」
独身の透には、2児の母である灯子の生活は想像を絶する世界だった。きっと、透には一生縁のない世界だ。
「じゃ、今日もお仕事よろしくお願いします! 頼りにしてるわよ、透くん」
係長の灯子に比べたら、透の仕事は責任のない部類に入ってしまう。
事務所で電話を取り、窓口で来客の対応をする。5月の大型連休のイベントの準備もしている。修理や敷地の整備も、男手である透の仕事だ。
「ほうがの里」は人気スポットというわけではないが、根強いファンがいる。竹細工、ガラス、染め物、機織りの工房があり、体験したいという問い合わせは電話でも窓口でも少なからずあり、工房管理者とのやり取りは透の仕事だ。
敷地内の小さなレストランは、釜飯ランチがSNSで話題になっており、それだけのためにわざわざ足を運ぶ人もいる。
バーベキューができる広場やアスレチックもあり、初夏から秋口にかけて団体客の利用が多い。
今はようやく山の雪が融け、路面凍結の恐れも少なくなり、冬場より客数がぽつぽつと増えてきている。
駐車場の落ち葉や苔を取り除かないと、足を滑らせてしまう人がいるかもしれない。冷蔵庫の冷凍室にストックしておいたクッペを、昼休みに給湯室の電子レンジで解凍する間に、透はふと思った。今日の午後は、デスクワークのおばちゃんが出勤するので、透は割と自由に動ける。駐車場の整備をするなら、このタイミングだ。
ここでの仕事は、スーツなんか着ていられない。透はトレーナーとデニムボトムスで出勤していた。このまま、午後は美化作業をすることにした。
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