第6話

 山の中は静かだが、無音ではない。葉が擦れ合う音、川の水が動く音、うぐいすの鳴き声、車の音、それらが心地良く耳に入ってくる。

 葉桜の下で、秋冬に溜まりに溜まった落ち葉を竹ぼうきや熊手でかき集めながら、透は自然のBGMに耳を傾けていた。

 そのうちに聞こえてきたのは、バスが停まる音とアナウンス。

 珍しいと思い手を止めて顔を上げるとバスから降りてこちらに来る人がいる。

 脳とは、奇妙なものだ。遠くにいたり人混みの中でも、見知った人はすぐに認識できる。

 今まさに、透はその現象に直面していた。バスを降りて「ほうがの里」に向かって歩いてくるのは、高校の制服を着用した架月だ。

 落ち葉集めに疲れたわけではないのに、透は胸の辺りがおかしくなる気がした。昨日の病院でのやり取りが思い出され、雫のように落ちた不安は波紋となって頭の中に広がる。

「架月!」

 透が呼ぶと、架月は今気づいたようにこちらを見てくれた。

「おにいちゃん!」

 初めて会った変声期を過ぎ、滑らかになった男性声。声を張っても割れず、自然の物音に馴染む声だ。

 架月は手を振り、こちらに歩み寄ろうとする。足の動きがぎこちない。片脚を引きずっているようにも見える。

 透は架月に駆け寄り、膝折れした架月を抱き止めた。架月は、かろうじて透の肩に額を預ける格好になっている。

「どうしたの、こんなところまで来て」

 脱力してしまった架月を支え、透は訊ねた。

「……ごめんね、おにいちゃん」

 なめらかな声が、肩の辺りで細く震える。

「ごめんね。本当に、ごめんね」

「架月は何も悪くないよ。ひとりでよく、こんな山の中まで来られたね。トコさんが事務所にいるよ。架月が来たって知ったら、トコさん喜ぶよ」

 うん、と架月は小さく頷いた。わずかに顔が動き、くすぐったい。透は、架月に対して猫撫で声になっている自分に気づいた。

「立てる?」

「うん」

 架月を立たせ、手を引こうとしたとき、架月はわずかにうめき、びくりと震えた。昨日の、肩を押さえていた様子が脳裏をよぎる。透が今掴んでしまったのは、手首だ。

「ごめん。俺、力が強いよね」

「違うよ。俺が弱いから」

 架月は透と目を合わせず、顔も上げない。俯いたまま、透について事務所に来てくれた。

「架月くん、久しぶり! こんなに大きくなっちゃって! もう高校生なのよね。入学おめでとう!」

 突然来訪した架月に、灯子は大はしゃぎだ。架月が透のところに泊まりに来たとき、透は出勤日に架月を「ほうがの里」に連れてきていた。灯子は架月を可愛がり、仕事そっちのけで世話を焼きたがった。我が子のように可愛いらしい。

「架月くん、今日学校は? お昼ご飯は食べた?」

 架月は俯き、言葉を探すように、うん、と頷いた。灯子のテンションの高さに戸惑っているだけではない、と透には見えた。

「学校は、午前中だけ。お昼ご飯は……あの、すぐ帰らなくちゃなので」

 くう、と腹の虫が鳴った。

 架月は頬を掻き、透を見やる。やっと目を合わせてくれたと安堵した刹那、ブレザーからのぞく白いシャツの袖に違和感をおぼえた。袖の中の影が濃い気がする。先程、うっかり掴んでしまった手首だ。

 灯子の前では話しづらいのかもしれない。

「架月、ついてきて」

 透は架月を促し、事務所を出た。

 釜飯ランチが話題のレストランは売店も併設しており、土産物以外に菓子や軽食も販売している。

 架月は菓子も軽食も素通りし、工芸品のコーナーに直行した。棚に並べられている陶器を見つめ、呟く。

「おにいちゃんの作品」

 ふと頬が綻び、架月は儚げに微笑む。

 透は「ほうがの里」の工房とは無関係だが、灯子の厚意で作品を販売させてもらっている。名刺も置かせてもらい、それを見た人から陶芸や金継ぎの仕事をもらったこともある。

「どれがいい?」

 透が訊ねると、架月は首を横に振った。

「入学祝い。好きなのをあげるよ」

「頂けない。壊しちゃいそう」

「壊れたら、持っておいで。つくろうから」

 それでも、架月は選ばない。透は独断で、いかにも益子焼なグレーのマグカップを選び、レジの職員に頼んで緩衝材と手提げ袋をもらった。そこでようやく、架月は顔を上げて受け取ってくれた。

「ありがとう」

 儚く微笑む架月に、透もつられて笑ってしまった。しかし、一瞬だけ。架月の手に、手首に、真新しいあざがある。袖から見えた濃い影は、痣の見間違いだったのだ。

 多分、架月は、このまま帰ってしまう。透を訊ねてきた理由も話さず、疑惑を残したまま。

「すぐ帰らなくちゃなんだっけ。近くまで送るよ」

「平気。自分で帰れる」

「バスと電車の乗り継ぎは時間がかかるよ。車を出すから、待ってて」

 往復の時間を考えたら、仕事は中抜けどころか早退せざるを得ない。だが、架月を放っておくこともできない。

 バスの時刻表を見て断念した架月は、しおらしく車の助手席に乗ってくれた。勝呂の家まで、片道1時間。会話は、ほとんどない。架月は俯いたまま、何も話さない。透も、何も聞けない。問いだしてしまいそうだから。架月を追い詰めてしまいそうだから。

 車は家の正面でなく、裏手のコンビニの駐車場に駐めた。

「架月はケータイ持ってるの?」

「うん」

 架月はブレザーのポケットから、真新しいスマートフォンを出した。透はそれを借り、必要だと思った操作をする。連絡先を交換し、昨日の入学式の写真を送った。それと、お守り代わりのアプリケーションをダウンロードした。

 架月は、黒目がちな瞳を大きく見開き、うるませた。

「おにいちゃん、あの」

 俯き、ためらいがちに言葉をこぼす。

「今日、楽しかった。トコさんと……おにいちゃんに会えて、本当に良かった。ありがと」

 架月は、ぺこりと頭を下げ、車を降りた。スラックスの上から大腿をさすりながら、家に向かう。架月の姿が見えなくなってから、透は車を出した。架月が透を訊ねた理由は、わからないままだ。

 不安は雫のように落ち、次々と波紋を広げる。膝折れした架月を支えたとき、身長の割に体が細いと感じた。ちゃんと食事は摂れているだろうか。眠れているだろうか。架月がつらい思いをしませんように。そればかりを願い、クランチバーを渡しそびれたことを悔いた。

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