第43話

「その前に、昼飯にしないか? 大したものは用意できなかったが」

 透は朦朧としていて気づかなかったが、征樹はコンビニのレジ袋を下げて来ていた。レジ袋の中身は、とろろそばと、かき玉うどん。

「もうそんな時間か」

 いつもと時間の感覚が違う気がして、正午を過ぎていたことにも気づかなかった。

「キッチン、借りるぞ」

「俺がやります」

「具合の悪い人は寝ていなさい」

 透は横になり、ローテーブルの下にブランケットを畳んでしまっていたことを思い出した。ブランケットを引っ張り出し、体にかける。

炬燵こたつとか、出さないのか?」

 征樹に指摘され、炬燵もホットカーペットも持っていないことを思い出した。

「買わなかったんだ。座って休むことも、誰かを家に上げることも、今まで無かったから」

 今までは、独りだった。架月と暮らすようになってから、まだ冬は迎えていない。暖房器具のことは考えていなかった。

「炬燵があったら、架月が喜ぶかな」

「喜ぶと思う。あの子は、炬燵で休むようなことが無かったから」

 透は、とろろそば。征樹は、かき玉うどんを選び、ローテーブルで食べる。透がお弁当に持って行くはずだった、かぼちゃのポタージュを出すと、征樹が何かの衝撃を受けていた。

「独身貴族の道楽だよ。こんなこだわりがあるから、俺は結婚できなかった」

「でも、架月が惚れた」

 透はむせ込み、とろろが鼻に入りそうになった。

「スープがあるから、パンも食べるか? 食パンか、カンパーニュか、エピ」

「ごめん。おじさん、食パンしか知らない」

「県議の先生も、知らないことがあるんだな」

「プライベートでは、うだつの上がらないおっさんだからな」

 冷凍室の食パン、カンパーニュ、ベーコンエピを1人前ずつ電子レンジで解凍する。待っている間に、シンクの水切りラックにあった架月のマグカップが目に入った。このマグを落としたとき、架月は卑屈になってしまった。水が残るマグを布巾で拭こうとしたとき、飲み口の一部が薄く欠けていることに気づいた。落としたときの傷つき方ではない。今まで経験がないが、焼成の段階か釜から出すときに欠けたものかもしれない。マグの水気を拭き取り、手ぬぐいに包んだ。

 電子レンジが鳴り、熱々になったパンを皿に並べると、征樹はベーコンエピを選んだ。

「架月は、こんなに良いものを食べているのか」

「まだ冷凍にあるよ。持って帰るか?」

「遠慮するよ。妻が妬く」

「どっちに遠慮しているんだ」

 軽口を叩く間は、体調不良を忘れていたが、食後に頭の重さや、鼻が詰まる感じがし始めた。

「カイト……架月の父親のことだったな」

 結局、3種類のパンを完食し、征樹は話し始めた。透は、座椅子に背中を預け、目を閉じて耳を傾ける。

「カイトは、俺が高校の教員だった頃に受け持っていた生徒のひとりだった。カイトは生まれたときに身寄りがなく、小学校を卒業するまで施設にいたらしい。中学校に上がるときに、高齢の新田夫妻の養子になった。その両親は不運なことに、相次いで病気になってしまい、ふたりとも、カイトが高校に進学する前に他界してしまった。それでもカイトが高校に在学できたのは、歳の離れた義理のお兄さんがいたからだった。透と架月よりも離れていたんじゃないかな。カイトはコミュニケーションが上手く、いわゆる可哀想な子感を感じさせないくらい周りに馴染んで生活していた。あの日までは」

 お決まりの文句で、征樹は言葉を切った。

「カイトが3年生の冬。就職先が決まった、冬休み直前。お兄さんが亡くなった。お兄さんには婚約者がいて、カイトが高校を卒業したら結婚する予定だったらしいが、結婚資金やカイトの学費のために、本業の塾講師以外にアルバイトをしていたそうだ。それが原因の過労死だった。それが学校で露見してから、カイトに向けられる目が変わった。お兄さんの婚約者は、責任を取れと学校に乗り込んでくるわ、生徒はカイトを殺人犯扱いするわ。教員が間に入っても、誹謗中傷は酷かった。すぐに冬休みになり、3年生は3学期の授業が無いから自由登校だったことが幸いだった。カイトは卒業式の日に登校したが、クラスに入れず、式典にも出席しなかった。式典の後に、保健室にいたカイトに会ったが、以前の明るいカイトの面影は無かった。教え子を悪く言いたくないが、カイトに死神が乗り移ったのではないかと言いたくなるほど、暗い雰囲気だった。卒業後も、俺はカイトと密に連絡を取り合おうとした」

 征樹は、ひと呼吸置いた。透の調子を気にしているようだった。透は頷き、先を促す。

「カイトが明るい連絡をくれたのは、彼が20歳になる頃だった。就職した小さな会社の女の子と結婚し、子どもが生まれそうだと、嬉しそうに話してくれた」

「その子が、架月」

 透は早合点してしまったが、合っていた。

「でも、架月を出産するとき、母親は命を落としてしまった。母親の名前が架澄かすみさんで、月の明るい夜に生まれたから、架月と名づけたが、カイトは独りで架月を育てなくてはならなくなった。俺も力になりたかったが、逸樹が生まれた時期とも市議選とも重なって、協力できなかった。カイトは子育てのために仕事を辞めなくてはならなかった。カイトも精神的に不安定になってしまい、怒鳴ることが多かったそうだ。架月を保育園に預けて働けるようになった頃、近所の人が虐待を疑って児童相談所に通報してしまった。カイトも心が折れて、架月は児童養護施設に入れられてしまった。架月を愛せなかった、とカイトは言っていた。いつも怒鳴って当たり散らしてばかりで、怖い思いをさせてしまった、と」

 透は、架月の怯える様子を思い出した。あれは、幼少期に植えつけられつしまったものなのか。

「架月に会う資格は無いとも言っていたが、こっそり架月の様子を見に行っていたそうだ。だが、施設での架月は、後ろ指を差されて酷い扱いを受けていた。一緒に暮らす子どもに言いがかりをつけられ、施設の職員から過剰なペナルティを課され、人格を否定される言葉を浴びせられていた。施設全体の体質が、そういうものだった。あそこの子ども達が人並みの扱いをしてもらうためには、他の子を蹴落として自分が優位に立つしかなかった。優しく大人しい架月は、蹴落とされて苦しんでいた。俺はそういう内情を知らず、カイトが調べて教えてくれた。そして、カイトに頼まれた。架月を養子にしてあげてくれ、と。あの子の強力な後ろ盾になってくれ、と。俺はカイトの申し出を受け入れ、架月を引き取った……強力な後ろ盾にも、良い父親にも、なれなかったけどな」

 そんなこと無い、と透は言おうとしたが、体力の限界だった。

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