第45話

 12月。最近は鼻の頭が冷たくなって目が覚めるのに、今日は温もりを感じて目が覚めた。顔を上げると、綺麗な鎖骨とパジャマの襟が目の前にあった。

「架月……!」

 身じろげば、まわされた腕に力を込められ、ますます身動きが取れなくなる。

 架月は、ふふ、と笑みをこぼして起き上がった。

「おはよう、おにいちゃん」

「おはよう、架月」

 透も起き上がり、まだ眠そうに目をこする架月の頭を撫で、質の良い髪を指で梳いた。同じサイズのパジャマを着ているはずなのに、架月のは袖も裾も長く感じる。幼さが抜けない子どものようで、可愛らしい。

 架月はベッドから下り、カーテンを開けて外の景色を眺める。

「雪、降ってない」

「雨は?」

 透もベッドから下り、外を見る。空には雪雲が垂れ込み、遠くの山は雪化粧をしている。ここから道路は見えないが、自宅敷地内の地面は濡れているように見えた。

「路面が凍結しているかもしれない。余裕を持って出よう」

 うん、と架月が頷いた。高校の2学期の期末試験が終わり、今日は大茶会の日。架月は嬉しそうだ。

 やかんで湯を沸かして急須に注ぐと、俺にも下さい、と架月がマグカップを差し出した。白釉をかけた、しのぎのマグだ。欠けた部分は漆で繕い、金粉を蒔いた。架月は大切に使ってくれている。

 食パンに、ほうれん草とチーズを乗せたポパイトーストで朝食にし、今日のために準備した余所行きに着替える。

「おにいちゃんは見ないで!」

 いつぞやのように架月に閉め出され、透は必要なものを持って別室で着替える。

 透が先に着替え終わり、洗面台の鏡で全身をできるだけ確認する。黒みを帯びた赤系の色である蘇芳色の着物に、灰色の袴。呉服屋の高級品には手が出せず、灯子にもらったチラシのアウトレットで購入した。着物の勉強もしなくてはならないな、と思ってしまった。

「お待たせ」

 架月が部屋の戸を開け、ひょこっと現れた。濃紫色の着物に、栗皮色の袴。重めな色の組み合わせだが、砥粉とのこ色の帯で重さを抑えている。体の線が細いせいか、着させられている感もあるが、若さが羨ましくもある。透が架月に釘付けになっていると、架月も透を見つめて頬がほのかに紅くなる。

「あ、ごめん。どうした? 架月、よく似合っているよ」

 乱れた髪を梳こうと近寄ると、架月は後ろに下がってしまう。

「おにいちゃん、お……大人の色気」

 架月は俯き、口ごもる。この前は、ちょっとだけ大人になった気がする、とか言っていた子が、うぶに照れている。いじわるしたくなるほど可愛らしいが、その余裕は無かった。

「そろそろ行くよ」

「うん」

 袱紗挟ふくさばさみを持ち、車に乗る。ふたりとも浅座りになってしまうが、何とかシートベルトを着用した。透は運転の間だけ草履から靴に履き替え、いつもより慎重に運転する。大茶会の会場は、初めて行く大きな寺。山道は路面凍結のおそれあり。着物で浅座り。危険満載だ。助手席で、架月は話しかけてこなかった。透には、それが助かった。

 大茶会は会場時間内ならいつでも受付してもらえるが、お菓子が無くなるとお茶席を終えてしまうところも多いため、午前中から来る人が多い。会場の臨時駐車場は、すでにかなりの数の車が駐められていた。

 靴から草履に履き替えて車から降りると、雨が降ってきた。今日のために買ってしまった、和傘風の傘を広げ、架月を中に入れる。

「俺は折り畳み傘を持ってきたから、大丈夫だよ」

「皆傘を差してくるだろうから、置き場所がなくなっちゃうよ。なるべく少ない方が良い」

 架月を促し傘の中に入れ、会場の寺まで、長い階段をのぼる。

「足元、気をつけて」

「うん」

 足を滑らせまいと、ふたりとも無口になる。架月も傘の柄を持ち、透についてくる。

 階段をのぼり切り、玄関で受付を済ませると、お茶席の案内を広げて見た。

「10席もあるよ。どれにすれば良いの?」

 大茶会の券は、ひとり3席まで。行きたいお茶席を厳選しなくてはならない。

「架月は、お煎茶を飲んだことはある?」

「緑茶じゃなくて?」

 その反応を見て、煎茶の席にお邪魔することにした。小さな茶器で味わう煎茶に、架月は渋そうに顔をしかめ、透は微笑ましく感じてしまった。

「お兄ちゃんと来たの?」

「お着物着付てもらって、良いわねー」

「飴ちゃん、あげるわ。お兄ちゃんにも分けてあげてね」

 炉薄茶席ろうすちゃせきが開くのを待つ間、架月はお着物のご婦人方に話しかけられる。架月は愛想笑いで流したが、ご婦人方が離れてゆくと、頬を膨らませて呟いた。

「俺、子ども扱いされてる」

 その頬に触れたい欲を我慢し、透は飴を受け取った。

「この界隈では、俺も子ども扱いされるよ」

「おにいちゃんは立派な大人なのに」

「架月も自分で着付ができて、立派なのにね」

 透が褒め、自分の半衿を指で示すと、架月も微笑んで自分の半衿に触れた。ふたりとも、同じ半衿にした。桜色の半衿は、桜の花が刺繍されているが、間近で見ないと気づかないくらい細かい。季節に合っていないが、ご婦人方は気づかず、指摘されなかった。ふたりだけの秘密のようで、こそばゆい。

 お茶室が開き、先のお客が出た後、ふたりはお茶室に入った。

「先輩が炉のお点前をやっていたよ」

「1年生は?」

「風炉点前のお稽古。柄杓の扱いが難しい」

「あー……あれは、慣れだな」

 雑談をして、お点前が始まるのを待つ。架月と茶道の話ができるとは思わず、透は浮ついてしまう。架月の雪華のお菓子に目を輝かせる様子も、お茶碗を扱う手つきも、つい見てしまう。

 3席目は濃茶にしようかと思ったが、濃茶はひとくちずつの回し飲みであるため、変なことを考えないように、やめておいた。代わりに、立礼りゅうれい席でクリスマスツリーを模した練り切りを頂き、薄茶で一服した。

 3席終えると、正午を過ぎていた。

「ぼくもお帰りなの? お写真摂ろうか?」

 先程のご婦人方と玄関で鉢合わせし、透と架月は「大茶会」の看板の前で写真を撮ってもらった。

 外に出ると、雨はみぞれに変わっていた。

「おにいちゃん、運転できる?」

「ゆっくり運転すれば、大丈夫だよ。この辺でお昼ご飯食べていこうか」

「お着物だよ?」

「架月と着物デートしたいな」

 傘を広げ、架月を中に入れる。石段の他に、緩やかな坂を下る裏道があることに気づき、そこから駐車場に向かうことにした。誰も通らない坂道。ひっそり椿の花が咲き、こぼれそうに花びらを広げていた。

「素敵な時間だったな。上手く言えないけど」

 傘の中で、架月の声がなめらかに響く。

「また、ふたりで来よう。桜が咲く頃になると、釣り釜とか、平釜とか、また違うお道具も扱われるんだよ」

「おにいちゃん、好きそう。お点前が終わっても、ずっと眺めてそう」

「やってしまったことがあるよ」

「俺もやろう」

「そのときは、めに入ってほしいんですけど」

 ふたりで傘の柄を持ち、軽口が弾む。不意に会話が途切れたが、架月が先に口を開いた。

「俺、勝手にデートしていた気分になっていたんだ。おにいちゃんと同じものを見て、おにいちゃんと茶道用語で話ができて、少しだけ、おにいちゃんに近づけた気がして、浮かれていた。駄目だね、俺は。まだまだ子どもで、おにいちゃんみたいに素敵な人には、ほど遠い」

 なめらかで綺麗な声が、耳も心もくすぐる。聞き流すことができず、透は歩みを止めてしまった。

「おにいちゃん?」

 架月も歩みを止め、黒目がちな目が潤む。

「架月」

 俺も、デートみたいだと思ったよ。良い年した大人が、こんなこと言えないけど。

 片手で架月を抱き寄せ、同じ身長の至近距離で視線が絡む。心臓が大きく跳ねた気がした。わずかに抹茶が残る無垢な唇に、唇を重ねたくなる。架月が目をつむった。

「これからも、一緒に暮らそう。だから」

 口づけは寸前で我慢し、耳元で囁く。

「本気で俺を落としにおいで」

 架月が驚いて固まり、頬を赤らめるのが、わかった。我ながら、ずるいと思う。自分の気持ちは明確に伝えられず、彼を焚きつけた。これからも、きっと、そうなってしまうだろう。

 傷ついてしまっても、欠けてしまっても、大切にしたいと思う人がいる。その人に手を伸ばして、傷も欠けも繕いたい。そうして、ふたりで暮らし、彼が大人になるのを見守り、一緒に過ごす時間を幸せだと感じる。そんな日が続くことを願い、透は傘を持ち直し、架月を促して再び歩み始めた。

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欠けた夜を星屑で繕う 紺藤 香純 @21109123

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