第14話

 金継ぎの中塗りを重ねた後は、地塗りという作業を行う。弁柄漆を細く薄く塗る。ラップの10分の1という薄さをイメージし、細心の注意を払い、透は深く溜息をついた。

 アトリエの引き戸が控えめに叩かれ、透は引き戸を開けた。

「おにいちゃん」

「架月」

 ひょこっ、と架月が顔を覗かせる。夜はとっくに更け、外灯は点けているが、足元は良くないはずだ。

「お風呂空いたよ。迷惑だった?」

「そんなこと、ないよ。休憩していた」

 おいで、と架月を促し、丸椅子をすすめた。架月は文庫本サイズの本を持っている。

「勉強?」

「うん。毎朝の英単語テスト」

 文庫本サイズの本は、分厚い単語帳だ。

「毎朝テストするのか?」

「うん。5問だけだけど」

 さすが、進学校。透は唸ってしまった。

「放課後は、古典単語とか、英文法とか」

「放課後もテストすんのか!?」

 さすが、進学校。透は、がつんと殴られた気がした。

「無理するなよ。体も心も壊したら、元も子もない」

「おにいちゃんは優しいね」

 ありがとう。架月は、単語帳で口元を隠して微笑んだ。

「架月は良い子だね」

 透は架月の頭を撫でてみた。艶のある髪は、風呂上がりでしっとり柔らかい。架月は目を細め、くすぐったそうに首を横に振った。

 透は口下手で、話を盛り上げるのが下手だ。架月は大人しく、饒舌になることがない。それでも気まずくなるわけではない。ただ一緒にいる時間が心地良い。

「粉蒔きをするんだ。見て」

 道具を用意し、漆風呂で寝かせた皿を取り出した。

「金粉!」

 架月の声が小さく弾んだ。高校生は、金粉にお目にかかる機会は、なかなかないだろう。

 ひとつまみの真綿に少し多めに金粉をつけ、くるくると円を描いてうぶ毛をなぞるような感覚で、漆の塗面に金粉を付着させる。全体的に黄色っぽくなれば、完成だ。

 透が深く溜息をつくと、架月も深く息を吐いた。

「息、止めちゃった。見入っちゃって」

 顔が赤くなり、黒目がちな瞳がうるむ。

「おにいちゃん、すごい。命を吹き込んでいるみたい」

「そんなにすごいことはしていないよ。割ってしまっても、欠けてしまっても、そういうものでも大切にしたいと思う人がいる。その人に応えたいんだ」

 今夜の作業は、終了。湿度を上げた漆風呂で乾燥させる。

「じゃあ、俺もお風呂に入るよ」

「お湯が冷めちゃったかも」

「平気平気」

 アトリエを閉め、ふたりで家に戻る。雲ひとつない夜空には、星が輝いていた。今まではひとりで行き来していた敷地内を、今日はふたりで歩む。

 透は浴槽の湯を高温で足し、湯船に浸かりながら、本当は架月を研修旅行に行かせないで安静にさせた方が良かったのか、とか、冷静になって抱きしめない方が良かった、とか、数日前のことを考えてしまう。

 富田睦美教諭が何か話したりしないだろうか。あのときの子が教師になっていた、というのも驚いた。透はあの子の顔を覚えていなかったが、あの子は透を覚えていた。本人にしてみれば、それだけ傷ついたと感じたのだろう。傷ついたのは、透も同じだ。どちらが悪かったのか、今でも自分の中で整理がつかない。

 湯気と一緒にもやもやを抱えたまま風呂から上がり、冷蔵庫の中を確認した。明日の朝食とお弁当の予定を立て、就寝することにした。

 架月は、すでに透のベッドで寝ていた。タオルを畳んで枕代わりにし、単語帳を持ったまま横向きで眠っていた。

 研修旅行から帰ってきてからも、架月はごく当たり前のように透のベッドで寝ている。以前泊まったときは、リビングに布団を敷いて使ってもらったのに、今回は布団を要求しない。透は透で、架月が眠っている間に脳の異常を起こさないか心配であるため、目の届く範囲で寝てもらいたい。結局、ふたりが同じベッドで就寝するのが手っ取り早いのだ。

 透はベッドに入り、架月の頭の下からタオルを抜き、自分の枕を入れた。加齢臭がしたらどうしようと不安になり、枕の臭いを確認してみたが、架月の髪からシャンプーの匂いがしただけだった。同じシャンプーを使っているのに、なぜこの子からは良い匂いがするのか、不思議であり、若さがうらやましくもある。

 セミダブルのベッドも、男ふたりが横たわれば寝返りを打つのに気を遣う。それでも透は、どこか安心感をおぼえ、うとうと寝つき始めた。明日の朝食は、夜につくっておいたポトフと、クッペ、オムレツ。お弁当は、梅ジャムと玉子の2種類のサンドイッチと、つくりおきしたコールスローサラダ。

 朝も夕方も、学校まで車で送り迎えしよう。架月は勝呂の家から電車通学だったのに、定期券を購入させてもらえず、少ないお小遣いからその日の往復切符を買っていた。

 この家から通うようになったら、通学手段はどうしたら良いのだろう。スクールバスはあるだろうか。途中まで送り迎えが必要かもしれない。

 これまでのように、透の自由な時間は取れないかもしれない。でも、なぜか充実していると感じてしまった。これが一種の興奮状態なのか、透自身もわからない。

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