顔色も悪く痩せ過ぎの身体は、栄養状態の悪さを物語っていた。小学校三年生という年齢にしては発育も悪く、そのくせ大人を見る時の目は獣のように険悪で、表情に乏しく会話を持とうとしない。普段から何事に対しても警戒心が強く、ちょっとした物音などに過敏に反応する癖が有り、ずり落ちた眼鏡を直す為に担任教師が手を上げただけで、顔や頭を庇うほどだ。

 そのくせ、同世代の友達に対しては威圧的で攻撃的。「こんな小さな子が」と思える様な乱暴な言葉遣いをする。自分の思い通りにならないことが有れば爆発的な癇癪を起し、人の腕に咬み付いたりすることも多く、自分より弱い者に対しては平気で暴力を振るう。昆虫の脚をもぎ取ったり、仔猫を川に投げ入れて溺れさせたりといった、小動物に対する目に余る虐待行動も目に付く。

 つまり、太一はその・・典型だった。虐待を受けた子供が呈する、身体的、精神的、行動的特徴。それらの全てを併せ持つ太一は、八歳にしてどす黒くて醜悪な心の持ち主に育っていた。


 無論、それは太一のせいではない。彼の保護者である健太と里奈に、その責任の全てが有るのは言うまでもない。収入の安定しない経済的不安が、我が子に対する虐待を生んでいて、健太と里奈の日常的な夫婦喧嘩や口論が、それに拍車をかけていることは間違いななかった。

 健太は太一に与える殴る、蹴る、屋外に締め出すなどの身体的虐待と、脅迫まがいの言葉による心理的虐待を「躾」或いは「我が家の教育方針」などと正当化した。里奈は満足に食事を与えないとか、体調を崩しても病院に連れて行かないなどの、無視、つまりネグレクトを続けていた。

 当然ながら、太一の一家が「近所付き合い」といった美徳を持ち合わせているはずも無く、地域社会から孤立した家庭内での虐待に気付く者など、殆ど居ない状況だった。


 それらの問題行動は、健太が切り盛りしていた居酒屋が廃業に追い込まれたのを機に始まった。それは世界規模で蔓延した感染症の煽りと言えたが、あの当時の政権の無策ぶりは ──利権を貪ることだけに血道を上げていた── 倒産件数などといった統計上の数値だけでは表すことが出来ない、もっと深い所で国民の生命と生活と、そして精神を崩壊させた。つまり人間を破壊したのだった。

 いつの頃からか里奈は、太一と目と目を合わせて話しかけることさえしなくなっていたが、それはひとえに、彼女が子供の頃に受けた母親からの虐待が負の連鎖となってぶり返し、今の太一に降りかかっているのかもしれなかった。だが、その原因が明らかとなったところで、太一に何らかの福音がもたらされるわけではない。子供の柔軟性に富む無垢な心が周りからの圧力を如実に反映し、いびつな変形を遂げたに過ぎないのだ。


 野球グラウンドから通学路に戻り、更に歩き続ける太一の耳が、微かな音を捉えた。市内を流れる、小さな川に架かる橋を渡っている時のことだ。橋の欄干から身を乗り出して下を覗き込んだ太一は、橋の下に無造作に置かれた段ボール箱の存在を認めた。

 渡りかけていた橋の途中で踵を返し、今来た方向に逆戻りする。その間も、太一の耳は段ボールの中から聴こえる、微かな物音に集中していた。そして橋のたもとで道を逸れ、足首程の草が生い茂る土手を、川に向かって降りて行く。そして段ボール箱にまで辿り着いた太一は、そっとしゃがみ込んで耳を澄ました。

 頭上を通過する車のタイヤが上げる音が、バタン、バタンと橋の下に響いた。どぶ臭い異臭を放ちながら流れる川の絶え間ない水音は、橋の下面に当たって反射し、太一の辺りに充満していた。それらの音に紛れながら、段ボールの中からは微かな声が漏れてくる。


 太一は箱に手を掛け、その上蓋を開いた。


 仔猫だった。まだ目も開き切っていない、産まれたばかりの仔猫だった。歩くこともままならない仔猫が三匹、段ボールに入れられて捨てられていた。中にはまだ臍の緒が付いているのもいる。仔猫たちはプルプルと震えながらも、何物かの存在を気配で感じたのか、更に激しく、そして弱弱しい声で鳴き声を上げた。

 その様子を見た太一は、微かな笑みを溢すと再び段ボールの蓋を閉じ、箱ごと持ち上げる。そして今来た方向に戻ろうと振り返った瞬間、直ぐ背後に誰かが立っていたことに気付いて、ビクリと身体を硬直させたのだった。

 「その猫、どうするの?」

 太一は相手の顔も見ず、視線を逸らした。彼は大人に対しては、異常なほどに媚びへつらったり、或いはオドオドとした態度を示す。一方で、同世代の子供に対しては、傲慢で攻撃的な態度をとる。しかし、今目の前に立つのは、制服を着た高校生と思しきお姉さんだ。それは太一にとって、大人でもなく子供でもなく、彼の狭い世界にはあまり登場することの無い、対応に困る相手であった。

 玲はもう一度聞いた。

 「その仔猫、どうするつもり?」

 太一は顔を背けたまま何も言わない。何も言うつもりは無いようだ。そうやって押し黙っていれば、そのうちこのお姉さんも諦めて何処かへ行ってしまうだろう。そうなるまでは一言だって喋るつもりなんて無いし、あと何時間かかったって構うもんか。とにかく自分から話すことなど無い。そんな決意に似た、頑なな心の垣間見れる態度であったが ──太一にとって都合の悪いことに── 玲の方も、一歩たりとも引き下がるつもりは無い。

 「君って、昔からそんな子だったのかな? ねぇ、ちょっと昔のこと思い出してみない?」

 玲の意外な言葉に、太一はジロリと彼女を見上げた。

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