レーテーは小高い丘の突端に立っていた。神殿を去ったその足で、ここまで歩いて来たのだ。眼下に広がる湖は、何事も無かったかのように静まり返っているが、その上昇した水位は、いまだ予断を許さない状況にあることは明白である。

 彼女は自分の力が及ばず、また志半ばにて任を解かれたことを残念に思う一方で、これまでに経た経験によって、自分の心が何倍にも豊かになったことを実感し、充足感に満たされているとも感じていた。その切っ掛けを作ってくれた忘却の湖を、最後に一目だけ心に刻んでから、ここを離れるつもりでいたのだ。


 するとその時、この丘の麓から頂まで続く森の奥から、彼女を呼ぶ声が登って来るのを感じ、レーテーは耳を澄ました。

 「レーテー、レーテー。お待ちなさい、レーテー」

 森から姿を現したのは、母エリスだ。エリスが取り乱したように坂を上って来る。彼女の服は棘で傷付き、足元は泥で汚れている。膝や掌にこしらえた痛々しい傷からは血が流れ、母が無理をしてレーテーを追って来たことは明白だった。

 「お母さま・・・」

 レーテーが目を丸くしているのも構わず、娘の元にまで駆け付けたエリスは、レーテーをひしと抱き締めたのだった。

 「おぉ、レーテー・・・ 私の可愛いレーテー・・・ お前を守ってやれない母を許しておくれ」

 「お母さま、どうなされたのです? 酷いお怪我を・・・」

 「私のことなど、どうだって良いのです。それよりお前が心配で・・・ お前はいったい、これからどうするつもりなのです?」

 レーテーは自分の服の裾を破り、急ごしらえの包帯を傷付いた母の手に巻き付けながら言う。

 「私は旅に出ます、お母さま」

 「旅ですって? 馬鹿なことを言うものではありません。神域を一歩出たら、そこは卑しい魔物の巣窟なのですよ。そんな魔界を一人で彷徨うなど、私が許しません」

 「しかしお母さま。神界追放が決定されてしまった以上、私がここに留まることは出来ないのです。それはお母さまが一番良くお判りのはずですが・・・」

 エリスはキリリとした厳しい視線を取り戻し、毅然とした態度で自分の娘を見据えた。

 「神界を追放されたからと言って、尊き女神であるお前が、行く当ても無く彷徨うことなど有ってはなりません。それは神界の尊厳にかかわる問題です」

 「ですが・・・」

 「お前には行くべき所を用意しておきました。これは軍神アレスの命でもあると心得なさい」

 「行くべき所?」

 「えぇ、そうよ。それをお節介などと言わないでおくれ。さぁ、お行きなさい。お前の新しい世界へ。心配しないで。私はこれからも、お前のことを見守っていますよ。

 そしていつの日か、お前の志が正しいことが証明されたなら、再び神界に戻ることも可能でしょう。行くのです、記憶の女神レーテー」

 そう言ってエリスはレーテーの肩に両手を添え、クルリと前を向かせてから、その背中をポンと押した。その母の手の感触を背中で感じた瞬間、レーテーの心の中には、母との数々の記憶が怒涛のように溢れてきたのだった。


 頭の上にポンと乗せられた、母の手の大きさ。肩をグイと抱き寄せてくれた、母の手の力強さ。そして包み込むようにギュッと抱き締めてくれた、母の手の温かさ。それらの全てが、柔らかな記憶となって彼女の心に刻まれている。

 しかし、そんな大切なことを、今までレーテーは忘れていた。そして、今まで長女である自分に対しては厳しく冷たいと感じていたエリスの、抱えきれない程の大きな愛情を思い出したのだった。

 そう。エリスの一番のお気に入りは、ポノスでもなくマケでもなく、リモスでもなければアテでもない。それはレーテーだったのだ。そのことをレーテー自身も知っていたはずだった。それなのに、いつの間にか・・・。


 それらを思い出せた時、レーテーの頬に涙が落ちた。堪え様の無い想いが、堰を切ったように流れ出した。そして彼女は、思わず母の胸に飛び込んだ。

 「お母さま・・・」

 既に自分より背の高くなってしまった最愛の娘を抱きとめたエリスは、その頭に頬を寄せ、いつかの時のように髪を優しく撫でるのだった。

 「愛しているわ、レーテー」

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