そのまま気を失ってしまったのだろうか? 清が目を覚ました時、目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。彼には自分の置かれている状況が判らない。空襲は終わったのか? B-29はもう飛び去ったのか?

 そして、どうして殆どの爪が剥がれ落ちているのか、どうしても清には判らなかった。その無残な指先を呆然と見つめながら思う。


 ここは何処だろう?


 体中の痛みに耐えながら上体を起こすと、清の視界の外からセーラー服を着た少女が顔を覗かせた。

 「じゃぁ~ん」

 「か・・・ 和子! 無事だったのかっ!?」

 その少女は笑った。

 「残念でした。私は和子さんじゃありませ~ん」玲だった。

 「どうだった、お爺ちゃん? 記憶を取り戻した気分は? 楽しかったかな?」

 淡い期待を打ち砕かれた清は、俯きながら言う。

 「楽しい筈など、あるものか」

 「うふふふ。だから言ったじゃない。楽しい思い出ばかりじゃないんじゃないかって」

 「あんな記憶なら、儂は要らん。今すぐに忘れさせてくれ!」

 しかし玲は、清の傍らから立ち上がると、その辺に生えている低木の葉っぱを弄びながら言うのだった。

 「それは出来ないって言ったでしょ? その記憶はお爺ちゃんが死ぬまで持っていてもらいます。そういう約束だから」

 「し、しかし・・・」

 「それじゃぁ、私の用は済んだから行くね。頑張ってね、お爺ちゃん」

 後ろ手を組んでクルリと振り返った玲に、清は爪を失った手を伸ばす。

 「ま、待て! こんな山の中で何処に行く気だ?」

 「お爺ちゃんは、そんなことは心配しなくていいの。それより、自分の心配した方がいいよ」

 確かにこの娘の言う通りだ。この土手を登らなければ、何処にも行けやしない。そして清はこの日初めて、相手に対する礼儀を踏まえた言葉を口にした。

 「ここからあの小金井の自宅まで、どうやったら帰れるのか教えて・・・ くれないか?」

 しかし玲は冷たい視線を清に送る。

 「自分がここにいる理由は思い出せないのね?」

 清は頷く。

 「それは記憶云々じゃなくて、お爺ちゃんが自ら選択した結果だと思うな。記憶の中に有っても、それを認識できないように自分で蓋をしちゃってるんじゃないかな。本当は帰りたくなんかないんだよ。あんな家に」

 「・・・・・・」

 「だからここから先は、私にはもうどうしてあげることも出来ないよ。じゃぁね。もう逢うことも無いから」

 清は慌てた。こんな年寄り、知らない山中に一人取り残されたら帰れる筈など無いではないか。

 「待ってくれ。こんな所に取り残されたら、儂はいったいどうなるんだ?」

 「さぁ。そこまでは私には判らないよ。お爺ちゃん次第だね」玲は無表情のまま続ける。「でも、もういいんじゃない? お爺ちゃん、いっぱい頑張ったよ。そんなにしてまで戻りたい所なの、お爺ちゃんの家って?」

 「・・・」

 「記憶が戻ったんだから、今までとは違う判断が有ってもいいと思うよ」

 そう言うと玲の身体はフッと半透明になった。清はそれを黙って見つめた。もう彼は玲を引き留めようとはしなかった。そしてニコリと笑った彼女が手を振ったかと思うと、そのまま森の闇に吸い込まれて消えた。


 後には清が一人、ポツンと残された。彼は座り込んだ姿勢のまま上を仰ぎ見る。つい先ほどまで、何も見えなかった筈のそこには、明るく輝く大きな月がいた。

 「美智子・・・ 和子・・・ もう、いいよな?」

 清は安らかな笑みを零した。

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