5
狼狽える玲に代わって、レーテーが記憶の返却を止めた。硬く目を瞑り、何かが自分の上を通り過ぎるのを待つかのように崩れ落ちる玲を、レーテーが見下ろしている。
レーテーが静かに言った。
「彼女には、最初から幸せな過去なんて無かったのね」
それでも玲は頭を抱えるような格好のままだ。何も見たくない、何も聞きたくない。まさにそんな格好だ。
「自分を偽って生きているうちに、それが彼女にとっての真実になってしまったのでしょう。随分と辛いことを思い出させちゃったわね」
玲が涙の溜まった眼でレーテーを見上げた。
「あの記憶は一生残るの? 折角忘れていたのに・・・ 知りたくもない過去を、私が孝子お婆ちゃんの記憶に擦り込んでしまったの?」
レーテーは静かな溜息の後に言った。
「そうよ」
レーテーが隣に腰を下ろした時、いつの間にか自分が湖の畔にいることを玲は知った。レーテーが司る忘却の湖だ。波立つ玲の心とは裏腹に、湖は静かで平和な表情を見せている。この平穏な湖に湛えられている記憶の数々が、人々に対してあんなにも惨い仕打ちをするなどと、どうして思えようか。
そんな玲の気持ちを知ってか知らずか、レーテーが問わず語りに話し出す。
「私は災いを司る一族の一員。本当の名前はレテ。私の親姉妹、親族はそれぞれ、争い、労苦、戦い、飢え、破滅、悲観、殺害、紛争、虚言、不法などを司る女神たちよ。
その中に有って、私が記憶、つまり忘却を司っている意味が判る?」
レーテーの質問に、玲は俯いたまま首を振って答えた。
「人は往々にして、過去を忘れ去ることで幸せになるの。それは、想い出が苦しみに直結しているからよ。勿論、幸せな記憶も有るでしょう。でもたいていの場合、これまであなたが巫女として経験してきたように、想い出はその人を絶望へと導くものなの。
だからこそ災いの一つとして記憶が・・・」
「それを知っていて・・・」玲が顔を上げてレーテーの言葉を遮った。「それを知っていて、私にこの仕事をやらせたの? 何故? 何故、そんな辛いことを私にやらせたの?」
「それは・・・」
レーテーは視線を玲から外し、穏やかな湖面の向こうに広がる風景を見やった。
「それはあなたが、記憶の中に希望を見出そうとしていたからよ。ひょっとして、あなたが信じているように、そこには何らかの救いが有るのかもしれないと思ったから。人は私たち女神が思うほど、弱い存在ではないのかもしれないと思ったから。
そして、あなたのそんな真摯な姿の中にこそ、大切な物が隠されているのかもしれないと思ったから」
レーテーの言葉は、最後には消え入りそうな小さなものとなっていた。
「ごめんなさい、玲」
そう言ってレーテーは玲の肩を抱いて抱き寄せた。玲はレーテーの胸に崩れ落ちるように顔を伏せ、そして泣き出した。
「辛い思いをさせてしまったわね。許して、玲」
レーテーは泣きじゃくる玲の頭を優しく包み込み、その髪に頬を寄せた。そしてもう一度言った。
「ごめんなさい・・・ 玲」
老婆は呆然と座り込んだまま、床を見つめていた。それはいつもの明るい孝子とは程遠く、まるで呆けてしまったかのように微動だにしない。
その様子をたまたま見つけた施設スタッフが、心配そうに声を掛ける。
「孝子さん? 孝子お婆ちゃん? どうしました? 具合でも悪い?」
すると孝子はゆっくりとその無表情な顔を上げ、見慣れたはずの風景を見回した。「ここは何処かしら?」そんな声が聞こえてきそうな表情だ。
このように、突如として認知症を発症することは珍しいことではない。もしそうであれば、孝子の親族に、即座に連絡しなければならない。何故ならばこの施設では基本的に、認知症を発症している人の受け入れは認めていないからだった。そうなった場合、彼女はもっと手厚い介護が受けられる施設に移る必要が有る。
「大丈夫、お婆ちゃん? 私が誰か判る? ここが何処か判る?」
なおも声を掛け続けるスタッフの肩越しに、見慣れた顔を見つけた孝子の表情が輝いた。そしてそれが、いつもの話し相手である敏子であることを認めると、その顔ににこやかな笑顔を取り戻した。
「敏子さん、敏子さん。こっちにいらっしゃいよ」
そして今まで心配そうに顔を覗き込んでいたスタッフにもこう言った。
「あなたにも話してあげるから座りなさいよ、小林さん。どうせ暇なんでしょ? 知ってるんだから」
誘われるままに孝子の隣に座る敏子。小林は半ば強制的に、孝子の向かいに座らされた。
「私が主人とイタリアに行った時のこと、話したこと有ったかしら?」
敏子は小林の顔を見た。そして僅かな微笑みを交わすと、孝子を労わる様な笑みを浮かべながら静かに首を振った。
「いいえ。話して貰ったことは無いわ。聞かせて頂戴。あなたの想い出を」
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