第六話:心の闇

 鼻先の黒い雑種だった。生まれてまだ一年くらいだろうか。クルッと巻いた尾が腰の動きに合わせてピョコピョコと揺れ、なんとも愛くるしい。ちょっと気が弱そうで、困ったような眼で足元にじゃれ付いてくる仔犬は、しゃがみ込んだ太一が手を差し出せば、それをペロペロと舐めては親愛の態度を示すのだった。

 自分よりも圧倒的にか弱い存在。こんなに小さいのに、親と逸れて一人で生きているのだろうか? 仔犬の暖かな舌の感触を手の甲に感じながら、太一はそんな風に思った。

 「もう行かなきゃ」

 学校帰りの太一がそう言って鞄の中から何かを取り出すと、仔犬は食べ物が貰えると勘違いしたのか、チョコンとお座りをして尻尾を振った。しかしそれが食べ物ではないと悟り、キョトンとした目で彼を見上げる。太一は優しく仔犬の頭に手を添えながら、疑うことを知らない小動物の顔にそれを近付けた。そしてそのつぶらな瞳に一滴、目薬のようなものを滴下した瞬間、仔犬の悲鳴が響き渡った。

 「キュゥ! キュゥゥゥン!」

 仔犬は狂ったように前脚で顔を掻く。しかし掻いても掻いても、眼球を締め付ける痛みが取り除かれることは無く、仔犬はヨタヨタと後ずさる。残った方の目で見上げた仔犬は、瞬間接着剤を手にした太一が更なる凶行に及ぼうと迫り来るのを認めた。

 急いで逃げようと走りかけるが、今までに経験したことの無い痛みに耐えかねた仔犬は思うように走れず、その場でバランスを失う。そして太一の手がその背中を鷲掴みにして抑え込んだ瞬間、悲痛な叫びをあげる仔犬が決死の反撃を試みた。

 「痛っ・・・!」

 親指の付け根辺りを噛み付かれた太一の頭に、カッと血が上る。そして仔犬の左後ろ脚を強引に掴むと、近くに生えていた大きなねむの木に向かって、その小さな身体を投げ付けた。

 「キャン・・・」

 今度は悲鳴にもならない声を上げながら、仔犬の身体はクルクルと回転しながら宙を舞った。しかし幸運にも、仔犬がその硬い幹に叩き付けられることはなく、生い茂った葉をかすめながらその後方へと突き抜けていった。その奥は太一の身長ほどもある背の高い草むらだ。その中へと飛んで行った仔犬は、直ぐに太一の視界から消えた。


 太一は厄介な雑草の森を掻き分けながら、なおも執拗に仔犬を追いかけた。しかし、もう虫の息で声すらも上げられないのか、視界を遮る草のせいで仔犬を見つけ出すことが出来ない。或いは、そのまま上手く何処かへと逃げおおせてしまったのだろうか。

 更に三十分ほども「クソッ!」、「クソッ!」と悪態をつきながら、何かに憑りつかれたかのように草むらを探し回った太一だったが、結局、再び獲物を見つけ出すことは出来なかった。


 そして太一の身体は狭苦しい雑草のブッシュを突き抜けて、いきなり開けた空間に躍り出た。その広々とした空間で行われていた野球のリトルリーグの試合は、突如として出現した闖入者によって中断する。キョロキョロと辺りを見回す太一。彼は自分が道路の反対側の野球グランドにまで出てしまったことを知った。

 「畜生っ!」

 彼はそこに立っていた、スコアを記入する黒板に蹴りを入れた。何度も何度も「畜生っ! 畜生っ! 畜生っ!」と繰り返し蹴り続けた。

 三回の裏まで進んでいた試合は、2-0で西区リトルジャイアンツが、北区ノーススターズを引き離していたが、その途中経過の数字が並ぶ黒板は、彼が蹴りを入れる度にグラグラと揺れ、白いチョークの粉を振り撒くのだった。

 いきなり草むらから現れた太一が、狂ったように黒板に怒りをぶつけるのを目撃した少年達の、呆気にとられた視線に気付いた彼は、フッと身体の力を抜いて蹴るのをやめた。そして笑った。

 「あはははは」

 野球少年たちの絡み付く視線を気にする様子も見せず、太一は外野の横を通って消えた。


 「酷いことするわね」

 片目に瞬間接着剤を落とされた仔犬を抱きかかえながら、玲が言った。彼女はバックネット裏のこじんまりとしたベンチシートに腰かけて、歩み去る太一の背中を見詰めていた。

 彼女が献身的に応急手当てをしたお陰で、仔犬の目は再び開き ──まだ痛々しく、真っ赤ではあったが── 今は安心し切って玲の腕に抱かれているようだ。

 「痛かったでちゅねぇ~。大丈夫だったでちゅかぁ、紋次郎?」と赤ちゃん言葉で話しかける玲の顔に鼻を寄せて、仔犬が「キュン・・・」と鳴いた。

 玲の隣に腰かけるレーテーは、その様子を見て微笑みながら言う。まるで二人は、弟の野球の試合でも見に来た姉妹のようではないか。

 「紋次郎? やだ、いつの間に名前付けたのよ?」

 「さっきでちゅよねぇ~」

 ペロペロと顔を舐められて、クスクスと玲が笑う。レーテーが呆れたように言う。

 「どうせやるんでしょ?」

 「当たり前でしょ。あんな子、放っておけるわけ無いよ」

 「でも原因は親の方に有るんじゃなくって? あの子を救えたとしても、また同じことの繰り返しにならないかしら? だったら親の方に手を打つというのも選択肢だと思うけど・・・」

 「レー姐さんの言うことは判るけど、やっぱり私は、まずあの子を救ってあげたいな。ねぇ、いいでしょ?」

 その言葉に反応することも無く、レーテーはベンチシートから立ち上がった。玲はそれを承諾の意思表示だと理解し、紋次郎を抱いたまま彼女の後に続いて席を立った。

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