玲は言葉を失っていた。何と言ったらいいのだろう? あんなにも朗らかなはずの孝子の、心細げな様子に胸が痛みそうだ。それに六十代で老人ホームに入れられてしまうなんて、ちょっと早過ぎないか? 家庭にはそれぞれの都合が有るにせよ、それにしてもと玲は思うのだった。

 じゃぁ、彼女がご主人と海外旅行に行っていたのは、いったいいつのことなのだ? 何処まで遡れば、その記憶に辿り着けるのだろう?


 五十代。

 孝子が一人で食事をしている。質素な食卓には、スーパーで買って来たお惣菜が一つ。それ以外はお新香や味海苔が並ぶだけだ。つけっ放しのテレビからは、つまらないお昼の番組の声が流れていたが、孝子がそれを聞いている様子は無い。

 極端に家具の少ない部屋である。電話台の上には、玲が見たことも無いような古ぼけた電話と、その横に小さな額に収められた写真が有った。写真の主は・・・ 孝子と小さな女の子だ。何処かの遊園地辺りで撮った、孫とのツーショット写真だろうか。

 どう見ても独り暮らしの部屋で ──彼女は独り暮らしなど、したことが無いのではなかったか?── 忘れ去られた様に生きる孝子の姿が有った。


 そんなはずは無い。そう思いながら玲は、その侘し気な孝子から、目を背けることが出来なかった。一方で玲は、自分が今、見てはいけないものを見ているような気分に襲われ、自然と鼓動が速くなるのを感じていた。


 四十代。

 更に十年遡っても、何も変わっていない。同じ部屋。この時すでに孝子は、十年後の生活を、つまり五十歳の頃の生活を始めている。唯一違っているのは、彼女が無理くりの化粧を施し、歳不相応のケバい服を着ていることだ。水商売で生計を立てているのだろうか? 彼女はタバコを吹かしながら、つまらなそうな顔でテレビを見詰めていた。


 息子は何をやっている? ご主人は何処にいる?


 三十代。

 この頃になって、やっと息子が姿を現した。狭い部屋に物が溢れている。それらの多くは、息子のものと思われる服やバッグやコミック雑誌の類だ。その散らかった部屋を更に混沌とさせているのは、孝子のものと思われる派手な衣類である。脱ぎっ放しで放置されているそれらは、彼女が家事らしいことは何もしていないことを窺わせた。

 息子は高校生だろうか? ひょっとしたら中学生か? 公立高校のものと思しき学ランを着ているが、どう見ても真面目な学生では無さそうだ。

 「あんた、こんな時間まで何処ほっつき歩いてんだよ! 何時だと思ってんのっ!」

 「うっせぇな、関係無ぇだろ」

 「関係有んだよ、馬鹿! あんたが補導される度に、あたしが迎えに行くんだからね! その度に仕事抜けて、手取りが減るんだよっ! んなことも判んねぇのか!」

 「うっせぇつってんだろ! 黙れくそババァ!」

 「今度補導されても、迎えになんか行かないからねっ! 自分で勝手にやりなよ!」

 「チッ」

 一度帰宅した息子が舌を鳴らして再び出て行くと、孝子はその背中に向かって、吸い切ってフィルターだけになったタバコを投げ付けた。


 二十代。

 まだまだ遊び足りないヤンキー風の娘が、産んでしまった子供を気怠そうに抱いている。咥えタバコが赤ちゃんの顔に触れそうだ。その表情には多くの母親が持っているであろうはずの、我が子に対する愛情や優しさや愛おしさらしきものは微塵も見当たらず、目の前の小さな命を、どこか遠くの星から来た謎の生き物でもあるかのように、無表情に見詰めるだけだ。

 「なんなんだ、こいつは?」

 そんな声が聞こえてきそうな、若さ花盛りの頃の孝子。

 明るい色に脱色した髪と無様に長いマスカラ。折角の張りのある肌も、無頓着な化粧で台無しである。子供がいるのに、落ち着きの欠片も無い服装が思慮の浅さを強調し、はち切れんばかりの若さを無駄に浪費している。まさにそんな様子だ。


 玲はもう、孝子の記憶を見続けることが出来なかった。嘘なのだ。全て嘘なのだ。フィレンツェで観た歌劇も、ギリシャの真っ青な海も、ロンドンの近衛兵も、全て孝子が作り出した幻想なのだ。


 十代。

 やっと彼女の夫らしき男が現れた。しかし、一見してヤクザ者と判る男ではないか。

 「あぁ、もう少し経ったら一緒になろう」

 「ホント? 約束だよ」

 「約束だ。でも、その前に借金を返さなきゃならねぇんだ。それを返し切ったら、晴れてお前と結婚できるんだが・・・ 手伝ってくれるか?」

 「判った。手伝うよ。何すればいいの?」


 「孝子お婆ちゃん、何やってるの!? そんなの嘘に決まってるじゃない!」

 玲の口から思わず声が漏れたが、記憶の中の孝子にその声が届くことは無かった。


 「割のいい仕事が有るんだ。お前がそこで働いてくれりゃぁ、借金なんて直ぐに返済出来ちまうんだがなぁ・・・」

 孝子はお腹の中の子供のことは、黙っておくことにした。それが原因で『割のいい仕事』に就けなくなっては本末転倒だ。彼と結婚する為だ。もう少しこの件は伏せておこう。

 「やるよ、その仕事」


 「もうやめてあげて!」

 玲は両耳を塞いでしゃがみ込んだ。

 「レー姐さん! どうやったら、これを止められるの!? 私には止め方が判らないよ!」

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