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五年前。孝子が八十歳の頃の記憶。この時、彼女は既にこの施設に入居していた。
孝子は共有スペースを縦横に歩き廻りながら、話し相手を探している。この時点では、まだ敏子が入居していないので、決まった話し相手がいないのだ。
さてさて、今日は誰が彼女のマシンガントークの標的にされるのやら。玲はワクワクしながら事の推移を見守った。
キョロキョロと周囲を見回す孝子。いつも一人で新聞を読んでいる偏屈な吉田の爺さんは、彼女が何を言っても難癖ばかり付けるので敬遠したいところだ。あの窓際に座って外の景色を日永一日眺めている下村さんも、こちらが話している最中に直ぐに居眠りを始めてしまうので、話し相手としてはつまらない。もっと自分の話に興味を持ってくれそうな人はいないか? 孝子はいつも、比較的元気でおとなしそうな相手を見つけては、陽気に話しかけるのだった。
「あら? あなた、新しいスタッフさんね? お名前は何ていうの? ねぇ、ちょっとお話ししない?」
「山田さん! 最近お見掛けしてなかったけど、お元気でした? あっ、ここ座っても宜しくて?」
「松田さん、松田さん! つまらないテレビなんて見てないで、こっちにいらっしゃいよ! 美味しいお菓子が有るわよ」
今と全く変わらぬ孝子の姿に、玲は心がホッコリするような気分になった。
確かに、一方的に自分の話をする孝子は面倒くさい人と思われがちで、彼女に付き合わされるのを遠慮する者もいるようだ。でも彼女はそんなことは気にする様子も見せず ──本当に気付いていないのかは判らないが── 周りに元気な声を掛け続ける。それによって、この施設の空気が華やいだものになるのだから、施設側としても彼女のお喋りに釘を刺すようなことは決してしない。
確かに自分のクラスにもそういった生徒がいると、玲は思った。ちょっとだけ面倒臭くって、鬱陶しくって、それでいてその子がいるからクラス全体が纏まるような子。皆に必要とされている子。孝子は正に、そういった存在だった。
もう少し時間を遡ってみよう。五年程度の記憶を戻してあげたところで、やはり彼女の失われた大切な記憶には届かないようだ。
十五年前。彼女は七十歳。孝子の記憶として蘇ってきた風景は、玲には見覚えが無いものだった。自宅ではないようだが・・・。
「児玉さん! そんな所に突っ立てないで、こっちにいらっしゃいよ! 今、私の新婚旅行の時の話を甚内さんにお話ししているところなの。ささ、こちらにお座りあそばせ」
相変わらずの、孝子の元気の良い声が響いて来た。見たところ、今の施設とは別の所のようだが、そこでもやっぱり彼女は明るく朗らかな孝子さんだった。時と場所が変わったとしても、彼女はいつだって話題の中心なのだ。
七十代から施設に入っていたのか。結構、長いんだなと玲は思った。十五年で足らなければ、更に十年、遡ってみよう。
「遠慮なさらずお入り下さい」
見るからに看護師然とした女性に連れられて、孝子が部屋に入って来た。この頃は六十代ということで、今よりは随分と若く見える。ただしいつもの孝子とは異なり、少し緊張している様にも見えた。
しかも玲を驚かせたのは、孝子のその衣服であった。今でこそ元気溌剌のお婆ちゃんといった風情だが、なんとこの時の孝子は、全くもって地味な衣服に身を包んでいるではないか。色合いもベージュとか、くすんだパープルなど、正にお婆ちゃんチックな取り合わせで、テレビニュースで見る巣鴨の地蔵通りから抜け出てきたような、キャラの薄い老人だ。
彼女の両脇には息子夫婦と思われる二人の姿も有った。普段は着つけないスーツに身を包んでいることは、その収まりの悪い着こなしからも一目瞭然だ。
「ささ、そちらにお掛けください。どうぞお気楽に」
小学校の校長室のような部屋に、自分だけの机を置いた初老の女性が立ち上がりながら孝子を招き入れた。彼女は客人にソファに座るよう促しながら、自分はその向かいに就く。その手には、席を立った際に机の上のファイルから抜き取った、一枚の書類が握られている。
「えぇっと、大城孝子さん・・・ でいらっしゃいますね? 当施設で理事長をしております三浦と申します。今後ともよろしくお願いいたします」
理事長の丁寧な挨拶に、孝子は畏まって小さな声で「はい」と応えた。
「お歳はまだ六十二歳ですか・・・ 随分とお若いですねぇ?」
その書類に目を落としながら彼女が問うと、孝子はもう一度、消え入りそうな声で「はい」と言った。孝子の緊張を解きほぐそうと、理事長はニコリと笑い掛けながら冗談めかした様子で言った。
「当老人ホームに入居頂く方の中では、ダントツの若さですよ、孝子さん」
それを聞いた息子が横から慌てた様子で、言い訳がましい話を持ち出した。ローテーブルを挟み、向かい合って座る二人を横から見下ろす形で立っている。
「い、いやぁ、私が関西に転勤することが決まってしまいましてね。この業界では、あっ、私は自動車関連の企業に勤めているんですが、いやぁ本当に転勤が多くて困ります。妻は妻で、私を単身赴任させるわけにはいかないと申しておる次第でして」
男の横に立つ女がしきりと頷く。
「かと言って年老いた母を一人、置いて行くわけにもいかないじゃないですか。何しろ母は独り暮らしなどしたことが有りませんし。本人は引っ越しなんてって言い張るし」
「はい。お察し致します」
理事長は静かに応じた。しかし彼女の視線は、黙って俯く孝子を見据えたままだ。
「そこでたまたま、こちらの資料を目にしましてね。ここだったら安心して母を預けることが出来ると、妻とも話していたところなんです。緑豊かな環境で設備も整っていますし、何よりもこちらの運営方針に感銘を受けました。『その人らしさを大切にし、明日の暮らしを共に創造してゆく』でしたっけ? これなんか・・・」
いつまでもダラダラと続きそうな息子夫婦の言い訳を遮って、理事長が声を上げた。
「ようこそいらっしゃいました、孝子さん。今日から私たちがあなたの家族ですよ」
理事長の優し気な表情に、孝子は救われたような笑顔を返す。
「よ、よろしくお願いいたします」
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