第一話:蛍の炎

 しっとりと湿った土手に足を取られたきよしは、そのまま尾根下へと滑落した。先程から何度登っても、どうしても登れないのだ。そこを登り切った所に何が有るのかは知らない。とにかく目の前に在る、その土手を登るということを繰り返す。ただそれしか彼の頭にはない。虫篭の中の昆虫が、ただ本能的に無益な行動を繰り返すように、清はただ登って、そして滑落するというサイクルを幾度となく繰り返していた。

 その土手を登らねばならない理由も無い。そこを登らずに下るという選択肢は、そもそも彼の頭には無い。何故自分がそんなことを繰り返しているのかも知らないし、そこに自分がいる理由も判らない。いつからその無益な動作を繰り返しているのか、そしていつまでそれを続けるのか。清は何も判ろうとしない。無い、知らない、判らない。自分には「無」しかないことにも気付かない。彼は自分が何者なのかすらも知らなかった。


 八十歳を過ぎた身体には酷な難所だった。若者であれば楽に登り切れるであろうその土手も、老齢な清には難攻不落に違いない。泥だらけ、傷だらけ。満身創痍の身体を伸ばしながら「うんっ」と小さな声を漏らし、清は辺りを見回した。


 この景色は見たことが有るぞ。 


 子供の頃に、岩魚釣りで分け入った山塊と似ていると思った。だが似ているだけだ。分厚く茂る木々によって辺りは暗く打ち沈み、遠くの景色は何一つ見通せない。そんな森の中など、どれも同じように見えるものだ。唯一確かなのは、ここが人里を遠く離れた、奥深い山中であろうということくらいだろうか。

 若い頃は友人と連れ立って、故郷の山々を縦横無尽に駆け回ったものだったが、それも遠い過去の話だ。今の清には、とてもなせる業ではない。


 でも、この土手を登らねばならないような気がする。


 清は滑落の際に打ち付けた腰を労わるように、斜面に生える大きな山毛欅の根元に座り込む。擦りむいた膝から流れる血も、爪の剥がれ落ちてしまった指先も、今の彼には気にならない。痛みすらも感じない。

 この土手を登る。ただそれだけが清の心を満たしていた。


 その時だ。清は何かの気配を感じ首を巡らせた。

 すると清が座り込む山毛欅の大木の陰から、女の子が顔を覗かせた。

 「どうしたの、お爺ちゃん?」

 そのセーラー服を着た少女は、かくれんぼでもしていて鬼に見つかった子供のように、ピョンと飛び跳ねるようにして清の前に躍り出た。突然のことに目を丸くした清は質問を返す。

 「お前さんこそ、こんな所で何をしておる? ここは子供が来る所じゃないぞ。さっさとお家に帰りなさい。家族の人が心配しているに違いない」

 相手が目下とみると、途端に横柄な態度になる老人はいるものだ。清も多分に漏れず、その悪しき習慣を身に着けて久しく、人を見下したような命令口調でしか会話が出来ない。相手が誰であろうが、礼節を重んじる美徳を失ってしまっては、人と心を通わせることなど出来はしないのに。

 そのような年寄りは周りから疎まれ、厄介者扱いされるのは世の常であるが、彼自身、自分がそういった扱いを受けていることにすら気付いてはいなかった。しかしセーラー服の少女は、そんな清の礼節を欠く態度も気にしてはいないようだ。

 「だって、お爺ちゃんが困ってるみたいだったから」

 「儂は何も困ってなどおらん! 大きなお世話・・・ ひ、ひょっとして・・・ 和子か?」

 目を見開いた清は、驚愕の表情を顔に張り付けた。

 「クスクス・・・ ごめんね、お爺ちゃん。私、お爺ちゃんの妹さんじゃないんだぁ。和子さんは空襲で死んじゃったでしょ? あの時、お爺ちゃんも見てたはずだけど・・・ 忘れちゃった?」

 少女はにこやかに笑いながら、小首を傾げる。

 「・・・・・・」

 「忘れちゃったんでしょ? 大切なことは何もかも」

 「わ・・・ 儂は・・・」

 「今、どうして自分がここにいるのかも、なんでこんなことをしているのかも」

 清は首を項垂れ、呆然と地面を見つめた。しかし彼の目に映っているのは、自分の登坂を拒み続ける土手ではなく、遠い遠い過去の記憶のような、曖昧模糊としたものだった。

 「自分の名前、言える? お家は何処? ご家族の名前は?」

 窺うような仕草で覗き込まれた清は、戸惑うかのように顔を背ける。

 「わ・・・ 判らん・・・」

 「やっぱり!」パンと手を打った少女は、嬉しそうに声を弾ませた。「そうだと思った!」

 「あんたは・・・ 誰だ?」

 清が顔を上げると、こちらに向かって真っ直ぐに正対する少女と視線が重なった。

 「私? 私は玲。あなたの失った記憶を取り戻して差し上げられます。如何いたしますか?」

 「き・・・ 記憶・・・?」

 清は何かを思い出そうとするかのように上を見上げた。しかしそこには、幾重にも重なる枝が作り出す自然の屋根が有るだけで、空も星も月も見えない。勿論、記憶と言えそうな何かの欠片すらも見出すことは叶わなかった。ただ漆黒の闇という、何もかもを飲み込んでしまいそうな無の空間が覆い被さり、清の見たいものは何も見えなかった。

 仕方なく視線を戻した清が言う。

 「儂に・・・ 儂に家族はおるのか? 妻や息子や娘が、儂にもおるのか? ま、孫は?」

 「それは確認が済むまで。お教えするわけにはいきませんねぇ」

 クイズ番組の意地悪な司会者のように、顔をしかめて首を振る玲。

 「確認?」

 「そう、確認。まぁ、一種の契約みたいなものかしら」

 「ど、どんな契約だ? まさかこの年寄りの命を寄こせとでも言うんじゃ・・・ さては、あんた悪魔か!?」

 「あははは。まさか! そんなことは言いません。それは極々簡単なこと。私が取り戻してあげた記憶は、あなたが死ぬまで持っていてもらいます。つまり忘れることは許されません」

 彼女の目がキラリと怪しく光った。

 「そ、それは・・・」

 「あっ、別に難しいことじゃありませんよ。実質的には忘れることが出来ないようにして差し上げますから。言い換えれば『死ぬまで忘れることが出来ませんが、それでも宜しいですか?』という確認だと思って下さい」

 「こちらから差し出すものは、何も無いと?」清はゴクリと唾を飲み込んだ。

 「はい。その通りです」

 玲が無知な客に、噛んで含めるような商品説明をする店頭販売員の如く鷹揚に頷いた時、清は彼女の両肩に腕を伸ばした。そしてその華奢な肩を揺すりながらこう言った。

 「そ、それなら記憶を取り戻して欲しい。儂の人生をもう一度振り返ってみたい。儂にも生きた証が有るはずなんだ!

 それは映画のような劇的なものではないのかもしれん。しかし他の皆と同じように、細やかでも心を豊かに満たしてくれるような大切な思い出が有ったに違いないんだ。それを失ったまま生き続けるなんて・・・。

 こんな本能だけで生きているような毎日にはうんざりだ!」

 玲は清に掴まれた肩を振り解こうともせず、そのままの姿勢で問うた。

 「本当にいいんですね?」

 「あぁ、構わん」

 「あなたが忘れてしまった記憶の中には、悲しい出来事も有るんじゃないんですか? 忘れてしまいたいことも有るんじゃないんですか? 辛いこと、苦しいこと。それらを忘れられたからこそ、幸せになれたことが有るんじゃないですか?」

 自分の言葉が相手の心に浸透する時間を推し量るかのように、一瞬の沈黙を経た後に玲はもう一度聞いた。

 「さぁ、これが最終確認です。それでも記憶を戻して欲しいですか?」

 清はゆっくりと頷いた。

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