「あの子、大丈夫かしらね?」

 段ボール箱を手に土手を登って来た玲に向かって、紋次郎を抱いて上で待っていたレーテーが声を掛けた。彼女は紋次郎を手渡す代わりに、玲が抱えていた箱を受け取る。そして玲は、仔犬の頭をコチョコチョと掻きながら打ち沈んだ様子で返す。

 「私、実は少しだけ後悔してるんだ」

 「後悔?」

 紋次郎はコチョコチョが気持ちが良いのか、目を細めてうっとりしている。

 「うん。やっぱり、あの子のご両親の方に、記憶を戻してあげた方が良かったんじゃないかって・・・」

 レーテーは一瞬だけ考えてから言った。

 「そうだったかもしれないわね」


 「でも、きっと大丈夫よ。あなたに付き合ってて、最近判ってきたことが有るの」

 歩き始めたレーテーの横に付きながら、玲が聞き返す。

 「判ってきたこと?」

 「そう。人間って、私が思っていたよりも何倍も強いってこと。時に弱弱しくて儚げにすら見えることも有るけれど、実はずっとずっと強い存在なんだって思うようになった。愚かでどうしようも無い時も有るけれど、その反面、ビックリするくらいにしっかりしてて頼もしい時も有る」

 「んん~・・・ 褒められてるんだかけなされてるんだか判らないけど、取りあえず、人類を代表して礼を言っておくわ。ありがとう、レー姐さん」


 二人は声を出して笑った。


 「あの男の子は、まだ幼くて自分の両親を一人の人間として見ることが出来ないわ」

 レーテーは遠くを見るような表情で続けた。

 「親であってもそれは一個の別な人格を持つ人間に他ならず、間違いを犯すことも有れば、逃げ出すこともある。弱い者もいれば、愚かな者もいる。自分の親であっても、それが完全無欠な存在であるなんてことは有り得ない。でも幼いうちは、そんな多角的な見方は出来ないもの。

 でも彼が成長して、親と言えどもそういった存在であるということに気付ければ、自分に加えられた酷い仕打ちの数々を、別な視点から評価できるようになるかもしれないわね。両親の未熟さすらも、愛おしいと思えるようになるかもしれない。だってあの子には、優しい両親に愛されて育った記憶が、消えることなく残るんですもの。

 それによって彼の両親が犯した罪そのものが消えてなくなるわけではないけれど、その悟りと同時に、自分も同じ不完全な人間なのだということに気づくことでしょう。

 きっとそうなる。ううん、必ずそうなるに違いない。そう思ったからこそ、あなたは彼に記憶を戻してあげたんでしょ? その可能性を信じられるのがあなた。違う?」

 玲は紋次郎を抱え上げ、自分の鼻から下を仔犬の腹に埋めながら恥ずかしそうに言った。紋次郎はくすぐったそうだ。

 「やだ、レー姐さんったら。そんな風に冷静な分析しないでよ。恥ずかしいから」

 クスリと笑うレーテーに、真っ赤な顔をした玲が言う。

 「そんな深い考えが有ってしたわけじゃないよ。でも・・・」

 「でも?」

 「記憶って過去のことでしょ? でも未来って、言ってみれば過去の積み重ねじゃない。どんなに遠い未来だって、過ぎてみれば過去から続く記憶の延長線上って言うのかな? だったら記憶こそが未来を形作る、最も重要な要素なんじゃないかって思うんだ。

 もちろん、忘れることで幸せになれる場合も有るってことは判ってる。今までレー姐さんと一緒に、そういった人たちを沢山見てきたしね。でもやっぱり過去を知ることで、人はより積極的に自分の人生に関与できるようになれるんだと思う。与えられた運命を受け入れるだけでなく、記憶を戻すことで自分なりの方向付けをする・・・ みたいな?

 私の言ってること、間違ってるかな?」

 「うふふ。間違ってなんてないと思うわ。だって記憶を失くした人が築く未来なんて、浮草の上に立つ塔みたいなものだものね」

 「あぁ、それって人間界では『砂上の楼閣』って言うんだよ」玲が得意気に言った。

 「砂上の楼閣ねぇ。面白い例えね」


 「で、この仔たち、どうするつもり?」

 そう言ってレーテーは段ボール箱を玲に向かって突き出した。しかし玲は困ったような顔で応える。

 「えへへ、どうしよっか?」

 「えへへじゃないでしょ! ウチでは飼えませんからね」

 「えぇ~、そんなぁ~」

 「当たり前じゃないの。神界に連れていけるわけ無いでしょ!」

 「ねぇ~・・・ レー姐さんってばぁ~・・・」

 玲の情けない声を聞いた紋次郎が「アンッ!」と吠えた。

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