太一は年中さんになっていた。彼はソファに座り、一人でテレビを観ている。それは里奈が撮り溜めている、教育テレビの幼児向け番組だ。大きな縫いぐるみのキャラクターたちが、面白おかしく大冒険を繰り広げるこの番組を、太一はいたく気に入っていた。


 里奈は台所仕事で忙しいようだ。


 健太の姿は無い。今、巷で大流行する新型コロナ感染症に伴う、政府、或いは自治体からの一方的な営業時短要請や外出自粛要請によって、彼の経営する居酒屋は風前の灯火と言えた。満足な補償も得られないまま悪化する経営状態から脱却する為に、健太は地元の岩手県に戻り、親兄弟、親類縁者、果ては高校時代の友人まで頼って、当面の資金を調達すべく奔走している。このような状況で、銀行が融資してくれることなど有り得ないからだ。

 とは言え、いつ終息するとも判らぬ感染状況を前に、思うように資金が集まるはずも無い。酷い時には、都会から戻って来た健太をばい菌扱いする者もいるほどで、感染症の罹患を恐れて玄関を開けてすらくれない場合も有る。パンデミックを起こした東京からの帰省者など、田舎の者にしてみればただの病原菌でしかないのだ。彼の両親ですら ──口にこそ出さないが── 健太がウィルスを媒介するのではないかという恐怖から、彼と言葉を交わすことを極力避け、遠巻きに見守るだけだった。


 そんな状況では家庭に明るい空気など有るはずも無く、健太と里奈の関係はぎくしゃくし始めていた。一家に覆い被さるどんよりとした暗雲を振り払うことが出来ず、日々悶々と不機嫌に過ごす。会話が無くなり、笑顔が無くなり、お互いを気遣う優しさも潰えていた。健太が岩手に戻って、今は顔を合わせることが無いのが救いと言えるほどの、冷め切った関係だ。

 無論、里奈が太一のお迎えに保育園に行った際にも、彼女が息子に笑いかけることは無い。家に帰れば太一をソファに座らせ、録画した番組を再生する。会話することも面倒臭く、垂れ流しのビデオを勝手に見せるだけだ。テレビに見入り始めた太一を一人リビングに残し、さっさと台所へと消えてゆく。自分と太一の分の食事を作るために。


 そんな状態が続いていたある日、苛々とした様子で夕食の準備をしている里奈の耳に、いつもとは様子の異なる太一の声が聞こえた。番組を見ながら楽し気に上げる声とは明らかに違う。不審に思った里奈が水道の蛇口を止めて耳を澄ましてみると、太一は誰かと会話しているようだ。タオルで濡れた手を拭きながらリビングに行ってみると、太一が床にペタンと座り込んで受話器を耳に当てていた。

 「もしもし・・・ おとうしゃん・・・? いないなぁ・・・」

 毎晩、夜になると健太が岩手から電話をかけてくる。太一はそこで健太と話をするのが大好きなのだ。今日は保育園でどんなことをしたのかなど、取り留めも無い話をするのが日課となっていた。彼にとって受話器とは、姿の見えない父とお話しできる不思議な道具なのだ。

 受話器を取れば、そこには大好きな父がいると思っていたのだろう。テレビ台の上によじ登り、彼の身長ではとても手の届かない高い位置に有った受話器を手に取ったのだ。

 そこから、父の優しい声が聞こえると思っていたのに、彼の耳に届いたのは「ツー・・・ ツー・・・」という冷たい電子音だけだった筈だ。太一はいったいどんな想いで、その音を聞いたのか。


 その様子を見た里奈の目から、涙が溢れ出した。太一の健気な姿が里奈のスカスカだった心を満たし、今まで抱えていた不安やら恐怖やら、或いは落胆やら絶望やらが一気に押し出されてきたのだ。彼女は太一に駆け寄ると、その小さな身体を抱き締めた。

 「ごめんね、太一・・・ ごめんね・・・」

 彼の小さな頭に頬を寄せ、里奈は何度も何度も謝るのだった。

 太一には母が泣いている理由が判らなかったが、ギュゥッと抱き締められて、とても嬉しくなった。



 再びバタン、バタンと、頭上を車が通り過ぎていった。どぶ臭い川の水音も戻って来た。その細々とした水線が乱反射する日差しは、相も変わらずユラユラと橋の裏側を揺らめかせている。

 焦点を失っていた太一の目に息吹が宿る。その瞳が最初に捉えたのは、目の前に立つ高校生のお姉さんだ。彼の脳はゆっくりとその姿を認識した。

 「その仔猫、お姉さんに渡してくれる?」

 優しく語り掛ける玲の顔を、太一はボンヤリと見上げた。そして手にしていた段ボール箱を、恐る恐る彼女に手渡す。それを受け取った玲はニコリと笑い、「ありがとう」と言い残して踵を返す。そして土手を登り始めた時、太一が初めて声を上げた。

 「お、お姉さん・・・」

 土手の途中で立ち止まった玲は振り返る。

 「その仔猫・・・ ど、どうするの?」

 「うぅ~ん・・・ どうしよっかなぁ・・・」玲は視線を上にして、考える仕草だ。「でも心配しないで。お姉さんが責任を持って、この仔たちのお家を見つけてあげるから」

 そう言って玲は再び笑った。

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