「どうだった? 記憶を取り戻した気分は?」

 乗るはずだった電車のドアが閉まり、徐々に加速しながら蓮の前を過ぎていった。女教師の言葉によって現実に引き戻された蓮は、冷めた視線を玲に投げ付けた。

 「いましたねぇ、そういう奴が。確かに忘れてましたよ、今の今まで」

 「それで?」

 「それでって言われてもなぁ。あいつ勝手に自殺しただけだし・・・ あっ、まさか。あれが僕のせいだって言ってるんですか?」

 「違うのかしら?」

 彼女の窺うような視線にたじろぐことも無く、蓮は堂々と言ってのける。

 「まさか! あんなペンシルケース壊したくらいで自殺されちゃぁ堪りませんよ。そんなんだったら、のび太君はいったい何回自殺すればいいんですか?」

 「でも、あなた。イジメていたでしょ、あの子のこと?」

 「まぁ、あれをイジメと捉えたいんだったらご自由にどうぞ。そういうのって当事者同士にしか判らないもんですからね。でも、あの件を持ち出して、僕がアイツらと・・・」

 そう言ってホームの奥の方を見渡した蓮だったが、例の三人組は当の昔に電車に乗って姿を消していた。

 「・・・僕がアイツらと同等だとか、言い掛かりも甚だしいと思いますよ、先生」

 「まぁ、あなたがそう言うのなら、そうなのかもしれないわね。ごめんなさいね、変なこと言って」

 女教師はその件に関し、特に蓮と争う姿勢を見せることも無く、黙って引き下がった。


 その会話を少し離れたベンチに座って聞いている女子高生がいた。玲だった。彼女は蓮の態度に憤りを感じ、やり場の無い怒りを持て余していた。

 レーテーには「夢に干渉するな」と言われている。あの女教師も、レーテーが玲の存在を借りて操っている虚像なのだ。だから我慢している。言われたとおりに傍観している。しかし・・・。

 (あれじゃ、自殺した宏一君はどうなるのよ。レー姐さん、もう少しビシッと言ってやらなきゃ)

 どうしても拳が震えるのを抑え込むことが出来ない。ジリジリとした想いを奥歯で噛み締める。


 「いいや、いいんです。別に気にしてませんから。確かに彼のことは忘れてましたけど、あれを思い出したからといって・・・ 忘れることが出来ないんですよね、これって? まぁ、別に僕には何の影響も有りませんから。忘れられなかったとしても問題ありません」

 「そう? それならいいけど・・・」

 その時、女教師の顔が俄かに曇った。そして視線を落とし、線路上を見据えるようにして固まった。逆に蓮が心配そうに声を掛ける。

 「先生? どうしたんですか?」

 (何? どうしたのかしら?)

 レーテーは自身が操る女教師を通して、何らかの力がそこに作用していることを感じ取っていた。

 (いったい何が起きてるの? ・・・!!! ひょっとして!)

 女教師は視線を巡らした。電車は出たばかりだ。奥に人影は無い。手前側にもさほど多くの人はおらず、彼女に力を及ぼしていると思しき人間はいない。

 (何処? 何処なの?)

 女教師は視線を戻し、ゆっくりと前を見た。

 (玲っ!?)

 レーテーは線路を挟んだ反対側、東京方面行きのホームのベンチに座る玲の姿を認めた。蓮の肩越しに見える玲は、ベンチに座ったまま俯いている。しかし彼女から発せられる思念の渦がユラユラと立ち昇り、辺りを薄暗くさえしているではないか。この駅全体を飲み込みそうな勢いだ。

 (駄目よ、玲! やめなさい! 自重して、お願いっ!)

 蓮が気遣わし気に女教師の肩に手を伸ばす。

 「先生? しっかりして下さい」


 キッと顔を上げた女教師の視線が、遠慮なく蓮の眼を貫いた。その表情は怒りに満ち、たった今まで柔和に会話していたそれとは全くの別人だ。その眼力に押された蓮が息を飲む。


 「あなた、宏一君が自殺したのは自分のせいじゃないって言ったわよね?」

 その豹変ぶりに息を飲んだ蓮は、返す言葉も出ない。

 「それ、本気で言ってるの? 彼に対して済まないという気持ちは微塵も無いわけ?」

 あまりに不躾に言い寄る女教師に、蓮が細やかな反撃を試みる。

 「あ、当り前じゃないですか。ペンシルケースくらいで・・・ く、下らない・・・」

 遂に女教師が声を荒げた。その絶叫するような声に、付近を歩いていた別の客が目を丸くする。

 「ふざけないで! 彼が壊れたペンシルケースを気に病んで自殺したと、本気で思ってるのっ!? あなたには人の心の痛みが、全く解からないのっ!? 彼がどんな思いで自分の命を絶ったのか、思い知りなさい!」



 宏一は泣きながら家に戻っていた。袖で顔を拭っても拭っても、次から次へと涙が溢れてきて止まらない。昨日、近くのショッピングセンターで、母に買って貰ったばかりのペンシルケースが壊れてしまい、いくらファスナーを引っ張ってみたところで、それが元の姿に戻ることは無かった。それを見れば見る程、悲しい想いが溢れ出てきた。

 しかし、宏一が泣いている本当の理由はペンシルケースではない。蓮の言葉が彼の柔らかな心に突き刺さり、グジュグジュと傷口を推し広げるのだ。その痛みに耐えかねて、宏一の涙は止まらないのだ。


 「俺はお前が嫌いなんだよっ!」


 小4の時に同じクラスになって以来、それからずっと一緒に遊んできた蓮が宏一は大好きだった。頭の良い蓮は、成績の悪い宏一に勉強を教えてくれることもあった。宿題を手伝ってくれたり、授業中、先生に差されて窮する彼にこっそりと答えを教えてくれたり。時々意地悪になることもあるけれど、彼と一緒にいる時が一番楽しかった。だから、いじめられてもいじめられても、宏一は蓮と一緒にいた。

 中学に上がっても、ずっと彼と一緒にいられると思っていた。


 しかし蓮は、そう思ってくれてはいなかったのだ。


 お前なんか嫌いだと言った。絶交だと言った。あっちへ行けと言った。宏一は自分が最も大切にしていた友人を、ついさっき失ったのだ。あんなに楽しかった日々は、これからもずっと続くと思っていた日々は、突然、終わりを告げたのだ。これから訪れるであろう空虚な毎日に、宏一は生きる価値を見出すことが出来なかった。

 二段ベッドの枠に電気スタンドのコードを引っ掛けて、丸い輪を作った。そこに首を引っ掛けて足を離せば、きっとこの絶望から解放されるに違いない。宏一は二段ベッドの一段目に立つと、電気コードで作った輪に首を通した。


 「やめろーーーっ! 宏一ーーーーっ!!!」

 蓮はホームに跪き、コンクリートの床に突っ伏すような姿勢で頭を抱えて叫んだ。


 宏一が脚を蹴り出すとガクンという衝撃が伝わり、引き絞られたコードが彼の気管を圧縮し呼吸を止めた。同時に血流を遮られた頸動脈によって、顔が破裂しそうなほどの圧力が内側に溜まり、宏一の視界が赤く染まる。

 何故だか涙が溢れてきて、宏一の頬を濡らした。そのぼやける視界が最後に捉えたのは、勉強机の上に置かれた、壊れたペンシルケースだった。その艶やかな黒い影は、視界がぼやけても尚その存在を誇示し続け、宏一の意識が最後の最後まで認識し続けた唯一の物体だった。

 そして最後の刹那、宏一の脳は蓮の顔を浮かび上がらせ、そして永遠の闇が訪れた。


 「うわぁぁぁぁぁぁっ・・・」

 蓮は先程の姿勢のまま、拳でコンクリートの床を殴り付けながら泣き続けたのだった。

 「宏一・・・ 宏一・・・ 宏一・・・」

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