「玲!」

 パンッ・・・

 呼び掛ける声に振り返った彼女の頬が、突然、熱湯をかけられたかのように熱くなった。レーテーが平手打ちをしたのだ。

 「勝手なことはするなと、あれほど言ったはずよ!」

 玲はジンジンする頬に手を添え、顔を背けたまま動かない。

 「何てことしてくれたの!? あなた、自分のしたことが判ってるのっ!? あなたは、彼に他人の記憶を植え付けたのよ! それがどういう事だか判ってるのっ!?」

 「彼は・・・」玲が弱弱しく言った。「蓮君はこれから・・・ どうなる・・・ の?」

 レーテーは自分を落ち着かせるために、大きく一つ息を吐く。

 「彼は一生苦しむことになるでしょうね。自分の犯した罪をどんなに償ったとしても、宏一君の記憶を消し去ることは出来ないわ。宏一君の最期の一瞬を、あの壮絶な瞬間を、まるで自分の経験のように記憶として刻み込まれ、彼は果たしてその重荷に堪え切れるかしら?」

 「・・・・・・」

 救いを求める様な玲の視線をレーテーは冷たく跳ね返す。

 「蓮君は・・・ 壊れてしまうかもしれないわね。人間って、そんなに強くはないものなのよ」

 「そ、そんな・・・」


 しかしレーテーはこの時、別なことを考えていた。それは玲の持つ特異な力についてである。

 彼女が率いる巫女は数百人を下らない。彼女たち巫女の夢の中で、それぞれのターゲットに近付き記憶を戻す。それが同時進行的に行われるとしても、女神である彼女には何の負担にもならない。それがレーテーに与えられた仕事であり、殆どの場合、何の問題も無く記憶の消費が行われる。


 しかし玲に関してのみ、全くレーテーの思い通りにはならないのだ。


 玲だけは自らの夢に干渉し、レーテーの意思と同レベルで本人の意思を反映させるという、稀有な能力を持っている。いや、今日に至っては、レーテーから完全に主導権を奪い取り、全くもって自分の思い通りに事を運んでしまった。そんな巫女は、彼女以外に存在しない。

 「ただし・・・」とレーテーは続けた。もう一度、大きな息を吐く。「ただし、今回だけは大目に見ます」


 そしてレーテーは思う。そんな玲が存在すること。そこには何らかの意味が有るのではないかと。私たち女神には窺い知ることの出来ない人間特有の何かを教える為に、玲という巫女が自分の元に遣わされたのではないかと。

 そしてそれは、私たち女神が忘れてはならない、最も大切な何かなのではないかと。


 「許して・・・ くれるの?」

 自分の犯した罪に圧し潰されそうな玲を見て、レーテーの心に哀れみに似た感情が生まれた。

 「今回、あなたが成したことは、本来であれば許される行為ではありません。他人の記憶を植え付ければ、勿論、記憶の消費は進んで湖の水位を下げることには有効だわ。でもそれだけはしてはならない不文律なの。タブーと言ってもいいわ。

 でも、今回のあなたの行為が特別に許されるのは、蓮君に植え付けたのが、宏一君という自殺をした人の記憶だからなの」

 「???」

 「自ら命を絶つ人の記憶は、死の直前であってもそれを当人に戻すことが出来ないのよ。それは湖の底に滓のように溜まっているわ。それは、あなたたちの世界でいうところの『不良債権』のようなもので、その永遠に残るべき記憶の消費に貢献したという点において、その過程の如何を問わず免罪が与えられたと理解して頂戴。ただし二度目は無いと心に刻んで」

 その自殺者による不良債権が近年急激に増加していることも、湖の水位を押し上げている一因であることは黙っておくことにした。人間界に蔓延る出口の見えない閉塞感が、悪性腫瘍のように人間たちを蝕んでいることは否めないが、それを玲に話したところで得るものは無い。

 「はい。判りました」玲はしおらしく頷いた。


 「ねぇ、レー姐さん。聞きたいことが有るんだけど・・・」

 たった今、こっぴどく叱られたばかりで、何かを問い質せる雰囲気ではないのだが、玲は思い切って聞いてみることにした。躊躇いがちの言葉を続ける。

 「どうして私の夢の中の出来事で、他人の人生を左右できるの? ひょっとして、あれは夢の中の出来事ではないの?」

 その質問にレーテーは少し考える仕草をしてみせる。先程までの怒りに似た感情は、既に影を潜めているようだ。玲はちょっと胸を撫で下ろす。

 「そうねぇ・・・ まず、夢の中では別の時間が流れています」

 「別の時間?」

 「そう。夜中に見たとしても、朝や昼間の夢を見るでしょ? 場合によっては過去であったり未来であったり。或いは見たことも無い遠い異国の地であったり。

 あれはね、夢の中はあなたの住む場所とは異なる時空に繋がっているからなの。同じ世界だけど、異なる時間、異なる場所と言った方が判り易いかしら? だから夢の中であなたが成したことは、別の場所、別の時間に実際にあなたが行っていることなのよ」

 「それって・・・ つまり・・・」

 「その通り。私のコントロール下にある夢の中のあなたは、無意識や自我が作り出した単なる想像や虚像なんかではなく、あなたとは隔絶された別人格の実在する人間なのよ」

 「そんな・・・ まさか・・・」

 「だからこそ巫女であるあなたは、自分の夢の中での出来事に責任を持たねばなりません。それが巫女の務めなの」


 玲は自分に与えられた力の重大さにおそれを感じた。そして同時に、レーテーの背負う荷の重さに身がつまされる思いもするのだった。だって彼女は毎夜、数百人分にも上る記憶を誰かに戻しているのだから。そしてその一つ一つに、人の人生を左右するような重みが有るのだから。

 まだ少し、レーテーに殴られた頬が熱かった。だが、宏一の記憶を背負うことになってしまった蓮の苦痛を思えば、こんなものは痛みとすら言えないに違いない。その柔らかな熱を放つ頬に手を添えながら、玲はそんな風に思った。

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