挿入話:神厳裁判
*
神殿の床に、レーテーは一人跪いていた。
彼女の右側には妹である、ポノス、マケ、リモス、アテがいて、仲の良いポノスとアテは何やらヒソヒソ話に夢中なようだ。間に挟まれているマケとリモスは話には加わっていなかったが、誰からも好かれるマケは二人の会話を楽しそうに聞いている。一方、リモスは表情を変えることも無く、姉妹たちの会話にも興味が無いようであった。
対する左側には、他の女神たち ──ネイコス、アルゴス、アンドロクタシア、デュスノミア、ホルコス、プセウドス、スミネ、ロゴス── も列席している。レーテーの祖母にあたる夜の女神ニュクスの血縁からなる彼女たちも災いの類を司る女神であり、この夜の神殿の住人である。
レーテーの眼前に続く階段の頂には、座る者の無い
すると何処からか、銅鑼の鳴る音が響く。
ゴォォォォン・・・
先ず彼女たちの母であるエリスが、神殿に姿を現した。レーテーは俯き、他の女神たちも一様に視線を落とす。そしてエリスがレーテーの左前の位置に付くと直ぐに、再び銅鑼が鳴る。
ゴォォン、ゴォォン、ゴォォォォォン・・・・
三度の銅鑼の音に続き、軍神アレスが壇上に姿を現した。
サフランで染め上げた薄織のシルクを身に纏い、右肩を出すエクソミス式の衣装は、彼の大きく盛り上がった三角筋と、分厚い胸筋を垣間見せている。丸太のように太い腕は、常人には持ち上げることすらも叶わぬ巨大な剣を、まるで棒切れのように扱うに違いない。その堂々とした体躯は見る者を威圧し、鋭い眼光のみで敵の戦意を喪失させるに充分だろう。まず間違いなく、戦場にて相まみえたくはない、最たる相手に違いなかった。
その身分に合せた丈の長い衣装を左肩で纏めているのは、狼のレリーフが施された黄金のブローチだ。それは金の針金細工を用いた繊細な物で、腰に巻く牛革ベルトの、鯨を模した青銅製のバックルと対を成している。
それら全てを覆い隠すかのように羽織った深紅のマントはクラミュスと言われ、その下から覗くのは、足首まで低く編み上げた、柳の皮でできたサンダル履きの素足だった。
彼が玉座に就くまでの間、両脇に控えていた女神たちだけでなく、エリスすらもレーテーと同じように跪いて低頭し、彼に対する敬愛と尊敬と服従の意思を表した。
アレスが席に就くと、レーテー以外の者たちが立ち上がった。
「それでは審判を行います。顔を上げなさい、レテ」
エリスが厳かな口調が響き渡り、全ての者が息を飲んだ。跪いたまま顔を上げたレテと、玉座に座るアレスの視線が交差した。エリスの陳述は続く。
「記憶の女神レテに問います。貴方が『記憶の禁』を破ったというのは本当ですか?」
「はい。相違ございません」
「記憶の女神レテに重ねて問います。一人の人間に、別の者の記憶を植え付けたというのは本当ですか?」
「はい。相違ございません」
レーテーの静かな声が神殿内に低く流れ、列席者たちが騒めき立った。顔を見合わせコソコソと声を交わす者たち。目配せをして頷き合う者たち。それぞれが驚きの表情やら、苦悶の表情を浮かべ、中には眉を顰める者すらいた。
その間もレーテーはアレスの顔をじっと見ていた。
「静粛にっ!」
エリスの一喝によって全ての者が口を閉じ、再び神殿が静寂を取り戻す。
「どうしてそのようなことをしたのか、説明しなさい」
「・・・・・・」
「どうしました、レテ? 軍神アレスの審判を仰ぐこの場において、沈黙は許されませんよ。判っていますね?」
その時、右側の列席者の中から声が上がる。
「畏れながら申し上げます、お母さま」
ポノスだった。彼女は顔を上げることなく、目を伏せたままだ。この場にいる者の中で、アレスに視線を送る無礼が許されるのは、審判を取り仕切るエリス以外は、被告であるレーテーだけである。
「お話しなさい」エリスは自らの次女に向き直って話を促す。
「はい」ポノスは一つ唾を飲み、意を決するように話し出した。「レテお姉さまは、ある巫女にご執心のご様子。今回の不祥事も、その人間が関与しているものと思われます」
あくまでも視線を落とし顔を上げずに話すポノスに、エリスが細めた視線を送る。しかし、それを聞いた四女のリモスが、あっけらかんとした声で言う。
「あら。どうしてポノスお姉さまが、そんなことまで知っているのかしら? まさかレーテーお姉さまのことを盗み見していたじゃないでしょうね? 嫌だわ、何だか不愉快」
その声には、自分の発言が皆に聞かれることを避けようとする意志が微塵も感じられない。勿論、わざと聞こえるように言ったのだ。すると、三女のマケが押し殺した声で釘を刺す。
「およしなさいってば、リモス。今は審判中よ」
「だってレーテーお姉さまが植え付けたのは、自ら命を絶った者の記憶だというじゃない。だったら今の神界にとっては、むしろ好ましいことじゃないのかしら?」
平気な顔で水を差すようなことを言う妹に、ポノスが怒りに満ちた視線を送っていると、エリスが声を張り上げた。
「いい加減にしなさい、貴方たち! 勝手に発言することは許しません!」
皆が首をすくめるようにして押し黙ると、身じろぎ一つせず、そのやり取りを聞いていたレーテーが遂に口を開いた。
「私の抱える巫女の一人に、特異な能力を持つ者がおります」
それを聞いたアレスは、ほんの少しだけ顎を上げて興味を抱いたことを示した。
エリスが言う。
「続けなさい、レテ」
「はい。彼女は夢の中の自分を自由に扱うことが出来ます。私の所為により記憶を戻された人間の改悛しない態度に憤りを感じた彼女は、私の静止を振り切り、あのような行動に出てしまいました。私にはそれを止めることが出来なかったのです」
これまで全く表情を変えることの無かったエリスが、少なからず驚きの感情を露にした。
「お待ちなさい、レテ。貴方の支配下にあった人間を、その巫女の思念が奪い取ったと言っているのですか? 貴方の所為に対する単なる干渉ではなく、記憶の返却を自らの意志で行ったと?」
「その通りです、お母さま」
再び列席者が騒ぎ始めた。女神の支配下にある人間の制御を、無理やり奪い取ってしまうほどの力を持つ巫女の存在など、認めるわけにはいかない。それは女神たちの存在意義すら危うくしかねないことなのだから。
「まさか。そんなこと有り得ないわ」
「馬鹿々々しい。彼女は嘘をついているのよ」
「もしそれが本当だとしたら、私たちはいったいどうなるのかしら?」
騒然とする神殿内で、エリスが両手をパンパンと叩きながら声を張り上げた。
「静かになさい! 静粛になさい!」
一同が再び口をつぐむのを確認したエリスは、レーテーに向き直る。
「それがあの巫女ですか? 貴方が気にかけていた?」
「はい。ご推察の通りです、お母さま。玲には・・・ かの巫女の心には正義が宿っております。そしてそれは、慈悲や慈愛に満ちております。その強靭な精神があのような力を持つに至ったものと思われます。
しかし、そのような巫女の所業を、単なる掟破りという言葉で片付けて良い物だとは、私にはどうしても思えないのです。そこから私たちが学ぶべきものが有るのではないかと、私には思えてならないのです」
「馬鹿々々しいっ! そんな人間などいるものですか!」今度はエリスが声を荒げた。「女神が人間から学びを得るなど言語道断。そもそも人間に『精神』などというものは有りません。それは私たち神々にのみ与えられた尊きもの。彼らに備わっているのは『本能』という名の、もっと卑しき感情だけなのです。
そんな人間の思念に、女神である貴方の神力が組み伏せられるような事など、有ってはなりません!」
「しかしお母さま。現に彼女は人の記憶を自在に・・・」
「それは貴方がだらしがないからです。その巫女は自らの力で記憶を操ったのではありません。上手く貴方を
元々、貴方は人間に肩入れし過ぎるきらいが有ります。女神である私たちが、彼らを同格とみてどうするのです?」
そのやり取りを聞いていたポノスがニヤニヤと笑った。そしてアテと視線を交わすと、二人してプッと吹き出した。
「しかしお母さま。そういった巫女が私の前に遣わされたのは、いったい何故でしょう? 彼女が存在する理由は何なのでしょう?」
「人間の存在に理由など有るものですか! 彼らは無意味な存在なのです!」
しかしエリスの一方的で断定的な口調にも、レーテーが動じることは無かった。
「夢の巫女の選択は、夜神ニュクスの采配によるもの。お母さまの言を借りれば、お婆さまの所為には意味が無いということになります」
「うぐぐっ・・・」
実の娘にやり込められつつあるエリスが言葉に詰まった時、玉座に座るアレスが静かに右手を上げた。それを見た列席者一同は ──エリスすらも含めて── 一斉にその場で跪き、首を垂れて彼の言葉を待った。
「レテ。記憶を司る女神である筈のお前が『記憶の禁』を破った罪は重い。そしてそれは、如何なる理由が有ろうとも、決して見逃せるものではない。たとえそれが特異な巫女の手によるものだったとしても、お前にはそれを止める責務が有った」
アレスの重々しい声が神殿を満たし、壁で跳ね返って木霊のように響く。
「だがお前の言うように、その巫女が他でもない記憶の女神である、お前の前に遣わされた理由を、私も知りたいと思う」
その発言を聞いたエリスが、慌てて声を上げる。
「し、しかし、お兄さまっ!」
「黙れ、エリス! お前はお母上の選んだ巫女に意味が無いと、本気で申しておるのか!? 夜を司る女神ニュクスの采配に、お前如きが異を唱えると申すのか!?」
「と、とんでもございません、お兄さま。出過ぎたことを申しました」
姪であるレーテーに向き直ったアレスは、少しばかりの優しさの籠った声で続けた。
「お前が抱く疑問の答えを探してみるが良い。人間の存在に、如何ほどの意味が有るのかをな。そして、その答えが如何なるものであるにせよ、お前に課すべき贖罪には猶予を与えるものとする。追って沙汰があるであろう。
それまで本件の審判は閉廷する!」
高らかに閉廷を宣言したアレスはダッと玉座を立ち、そのまま横を向くとマントを翻しながら出口へと向かって歩き出した。顔を伏せたまま、伯父が立ち去る様子を感じ取っていたレーテーは、床に視線を送りながら言う。
「お心遣い、感謝いたします。軍神アレス」
それを聞いたアレスは立ち止まって振り返り、低く首を垂れたままのレーテーに言った。
「答えが見つかったら、報告に来るがよい。下がるぞ! エリス!」
ゴォォン、ゴォォン、ゴォォォォォン・・・・
三つの銅鑼が鳴るとエリスが慌てて立ち上がり、兄の後を追って小走りに駆けだした。
「お、お待ち下さい。お兄さま」
ゴォォォォン・・・
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