第五話:終の棲家

 そのマンションの一階の一角にある広いスペースに、賑やかな声が響いていた。ある者は子供の頃に聞いた童謡を手拍子を打ちながら歌い、またある者はテーブルに広げた色紙の中から一枚を抜き取り、ゆっくりとした動作で鶴を折っている。窓際に立って外を指差しながら、何事かをしきりと話し込んでいる者もいた。

 彼ら彼女らは一様に薄緑色の服を着て ──それは丁度、病院などで見かける看護師の着衣に似ていた── 歳の頃なら二十代半ばから四十代くらいの若い男女だ。そして彼らの傍らには、必ず老人たちが控えているのだった。彼らの歌も折り紙も、或いは世間話も全て、ここの入居者である老人たちに向けられたものだった。


 一般に老人ホームや介護施設には、その運営母体や目的、或いは入居条件等により様々な種類が有り、大きく分けて公的施設と民間施設が存在する。その機能面の種類、つまり施設の目的を決定付ける最大の要素は「介護度」という言葉で表される、介護を必要とする度合いの指標だ。従って公的施設の場合も民間施設であっても、要介護か自立状態かで、更に細分化されることになる。

 例えば要支援1とされるのは、排泄や食事は殆ど自分一人で可能だが、立ち上がりや立位保持など生活の一部に何らかの介助が必要となる場合を差し、要介護5になると、日常生活のあらゆる場面での介助が必須となる。場合によっては、理解の低下や行動不安が現れる、いわゆる認知症もその範疇となる。


 孝子が入居するのは自立から、要介護3程度の比較的軽い介護度の老人たちが入居する、いわゆる「サービス付き高齢者住宅」と呼ばれる民間施設だ。手厚い介護が必要な老人向けの施設は「特別養護老人ホーム」とか「介護療養型医療施設」といった重苦しい名称で呼ばれることが多いが、彼女の住むような施設の場合は「シニア専用分譲マンション」だの「高齢者向け優良賃貸住宅」などと、ネガティブなイメージを払拭する命名に懸命のようだ。


 そんな老人達の住むマンションに付随する老人向けサービス施設の職員達が、入居者者相手に手遊びなどをしている風景の中に有って、孝子は抜きん出て元気の良い老人だった。彼女自身、自分の身の回りの世話には何の介助も必要とせず、完全な自立状態ということも相まって、むしろここでの生活を悠々と満喫しているかのような印象だ。

 髪には月一でパーマを当てることを忘れず、白髪染めだって手抜かりは無い。指には大きな石のリングが光り ──おそらくイミテーションなのだろうが── お化粧だって欠かしたことは無い。年齢に似合わぬ派手な色合いの服を好み、季節を問わず首にスカーフを巻いているその姿は全くもって老人らしくなく、アクティブという言葉がぴったりだった。


 そんな孝子は暇が出来る度にここに降りて来て、気の合う友人である敏子を捉まえては、あれやこれやと取り留めも無い話をするのが大好きなのだ。そんな時、敏子の方は嫌な顔一つせず、いつもにこやかに孝子の話に黙って相槌を打つのだった。

 「敏子さん,敏子さん。私が主人と行ったイエローストーンのこと、話したこと有ったっけ?」

 敏子は優し気に微笑みながら首を振る。

 「いいえ、聞いたこと無いわ。どんなだったか話して下さる?」


 敏子の一人息子である忠司が会社の都合によりバンコクへ転勤となり、それを機に老人向け施設への入居に踏み切ったのが、丁度三年前のことだった。当初は老いた母を残してゆくわけにはいかないと、単身赴任を決意していた忠司であったが、嫁の里奈と孫娘の陽詩ひなたが頑なに日本にとり残されることを嫌がり、結局、現地の家族向け買い上げ社宅に一家ごと移り住んでしまったからだ。忠司は敏子にもバンコク行きを進言したが、今更言葉の通じない外国で暮らすなんて気が重いと感じた敏子は、忠司に無理を言ってここに入居させて貰った形である。

 しかし、サービス付きの高齢者施設とは言え、さすがに老いてからの独り暮らしは彼女の覇気を容赦なく奪い取ったのだった。元々物静かな性格だったことと相まって敏子の心は内へ内へと沈み込み、八十六歳という年齢以上に老け込んでしまった。その様子を見た施設の職員やスタッフたちは、敏子がこのまま蝋燭の炎のように衰弱していってしまうのではないかと心配していたほどだった。


 そんな彼女の救いとなったのが、先輩入居者である孝子の存在であった。敏子が入居した時には既に、我が物顔で施設内を闊歩する孝子が、誰彼捉まえては話し相手に仕立て上げるという一連のルーティンが確立されていたのだった。その明るくて陽気な孝子が、口数の少ない敏子を絶好の話し相手として認識するのに、さほど時間は掛からなかったことは想像に難くない。二人が話し込む姿を見るにつけスタッフたちは ──その会話が幾分、一方通行気味であったとしても── ホッと胸を撫で下ろすような気持になったものだった。


 多くを語らない敏子に対し、孝子は幸せな想い出を沢山抱え、色々な話を披露してくれるのだった。その話の殆どは、先に逝った夫と訪れた旅先での出来事などで、敏子の知らない遠い異国の魅惑的な雰囲気に溢れたものだ。イタリアの下町で見つけたジュエリーが素敵だったとか、スペインのホテルで出た食事が美味かったとか。韓国で食べたキムチが辛かったとか、ニューヨークで観たミュージカルに感銘を受けたとか。


 しかし年齢によるものか、細かい部分を思い出すことが出来ないらしく、本人は事あるごとに残念がってもいる。

 「あの店は何て名前だったかしら」

 「あの時食べたお料理は確か・・・」

 彼女の昔話はいつだって、こんな風にあやふやな記憶が故に、あやふやなまま幕を閉じる。それでも敏子は、楽し気に孝子の話に耳を傾けるのだった。それは海外旅行など経験したことも無い敏子にとって、この閉ざされた空間に生きてゆく上での、欠くことの出来ない気晴らしのような物なのかもしれなかった。


 「こーんなに大きなバファローが」孝子は両手を広げ、身振り手振りで思い出話を繰り広げる。「主人にのっしのっしと近付いてきて、もう私はハラハラし通しだったわよ。あんなに大きな動物、動物園で見た象以来だもの」

 「本当に? そんな大きな動物、私だったら気を失っちゃうかも」

 目を丸くする敏子に、孝子は上機嫌で話しを続ける。

 「そうよねぇ。私だって主人を置いて逃げ出そうと思ったくらいよ。あははは。それなのにあの人ったら『平気平気』とか痩せ我慢しちゃって、ホントどうしようもない人だったわ」

 そんな時、孝子は決まって昔を懐かしむような、遠い目をするのだった。

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