「なんでお前がそんなもん、持ってるんだよっ!?」

 「え・・・ これ、昨日お母さんに買って貰って・・・」

 それは黒いペンシルケースだった。まだ買ってきたばかりのピカピカのペンシルケースだった。小6の男の子がいかにも好みそうな、それでいて次の春からの中学校でも使えそうな、少しだけ大人びた新品のペンシルケースだった。

 「お前、頭悪いんだから、そんなん持ってたってしょうがないだろ! 貸してみろよ!」

 「い、いいけど・・・ ちゃんと返してよね」

 「うっせぇっ! 生意気な口きくんじゃねぇ!」

 「だ、だって蓮くん。この前貸したカードアルバムも返してくれてないじゃないか」

 宏一のランドセルに入っていた新品のペンシルケースを抜き取った蓮は、それを高々と持ち上げた。蓮よりもずっと背の低い宏一は、そういう風にされると絶対に手が届かないのだ。

 「知らねぇよ、そんなもん。俺が借りたって証拠でもあんのかよ!? 証拠があんなら見せて見ろよ!」

 「そ・・・ それは・・・」

 「ほぉら見ろ! 証拠なんか無ぇじゃねぇか!」

 そう言って宏一の頭を拳骨で殴り付けた蓮は、たった今取り上げた真新しいペンシルケースのファスナーを乱暴に開こうとする。それを見た宏一が、蓮に殴られた頭を押さえながら思わず声を上げる。

 「あっ! そんなに乱暴に開けないで! 壊れちゃうよ!」

 「うっせぇな!」

 すがり付くような宏一に足払いを喰らわせてその場に転がせた蓮は、スムースに開かないケースにイライラしながら、思いっ切り取っ手を引っ張った。

 ビィィィィ・・・ッ

 二人の耳に届いたのは、ファスナーが開いた音ではなかった。ファスナーがケースに縫い付られている部分が裂け、無残な口が開いた音だった。

 「あ、ヤベ・・・」

 「あぁっ・・・」

 二人が同時に息を飲む。一瞬だけ時間が止まった。


 地べたに座り込んでいた宏一の手がゆっくりと伸びた。蓮の手が、宏一のなすがままペンシルケースを手放すと、彼はそれを手元に手繰り寄せる。宏一は壊れてしまったケースを両手で包み込むようにして俯いた。

 思わず早口でまくし立てる蓮。

 「お、お前が手ぇ伸ばしたからだからなっ! お前のせいだからなっ!」

 蓮が責任の全てを一方的になすり付けている間、宏一は無様に開いてしまったケースを開いたり閉じたりしながら、そこから覗く鉛筆やら消しゴムやら、或いは三角定規やらを訳も無く見つめていた。そしてその手に、ポタリと涙が落ちた。

 それを見た蓮は、狼狽えるように更に言葉を続ける。

 「だ、だいたい、お前ウザいんだよっ! 昔っから気に入らなかったんだよっ!」

 自分が明らかな加害者となってしまった場合、相手よりも自分の方が被害を被っているのだと主張することで、その罪が相対的に軽くなるような気がしてしまうのは、それが子供同士のイザコザでも同じである。自分の方が怒っているのだと、相手よりも大きな声で訴え続ければ、今のこの窮地を乗り切れるに違いないと思えてしまうのは、ひょっとしたら人間の根源的な部分と関係が有るのかもしれない。

 「今まで我慢して遊んでやってきたけど、もう堪忍袋の緒が切れた! お前、二度と俺に話し掛けんなよなっ! 俺の前に顔見せんじゃねぇぞ!」

 この時の蓮にとって最も大事なことは、宏一の心の傷を感じ取ることではなく、ましてや彼に謝罪することでもなく、自分の犯した罪から逃れること、それだけだったのだ。そんな彼の頭に、こういった状況に相応しい言葉が浮かんだ。

 「絶交だからなっ! もう、お前とは絶交だからなっ!」

 「えぇ・・・ そんな・・・」

 その言葉に反応した宏一が、泣き腫らした目で見上げる。

 「うるせぇ! 俺はお前が嫌いなんだよっ! 顔も見たくねぇんだよっ! さっさとあっち行けよ! ほらっ。行けよっ!」

 蓮は座り込んでいる宏一の腰の辺りを蹴り上げた。宏一は顔をしかめながらも、のそのそと立ち上がる。そして壊れてしまったペンシルケースを大事そうに抱えながら、トボトボと歩き出した。

 しかし、数歩進んだところで立ち止まった宏一は、おずおずと振り返る。

 「れ、蓮くん・・・」

 しかし蓮は、宏一の言葉を聞こうともしなかった。

 「うるせぇつってんだろ! お前なんか嫌いなんだよっ! どっか行っちまえっ!」

 ぷぃっと顔を背けた蓮の横顔を暫く見つめていた宏一だったが、結局何も言わずまた歩き出した。ロックが外れたままのランドセルの蓋が、ブランブランと揺れていた。その背中を横目で見ていた蓮は、当面の危機が去ったことを確信し、安堵し、そして大きく息を吐いた。


 それが最後だった。蓮が宏一を見たのは、その後ろ姿が最後だった。翌月曜日の学校。もう直ぐ卒業式を控え、中学に上がる直前の子供たちのソワソワした感情が一杯に満ちる教室に、宏一は二度と姿を現さなかった。


 宏一は自室の二段ベッドの枠にくくり付けた、電気コードで首を吊って死んだからだった。


 元々成績のさほど良くはない宏一にとって中学に上がるということは、周りが想像する以上に心の負担となっていたのだろう。その葛藤に耐え切れず、幼い子供が自ら命を絶ってしまったのだ。大人たちの間では、宏一の死はそういう風に捉えられていた。そのことに気付けなかった両親や担任は、己の無神経さに、無関心さに、そして鈍感さに自分自身を責めたのだった。

 だが蓮だけは、それが自殺の真相ではないことに漠然と気付いていた。気付いていたが、それを深く考えることはしなかった。もし、それを突き詰めてしまうと、耐え難い苦痛に見舞われるような気がしたからだ。そのことによって自分が、自分のこれからの人生がどうなってしまうのか、それを想像することも恐ろしくて、ただ心の窓を閉め切って嵐が通り過ぎるのを待ったのだ。

 そして彼のその思惑はまんまと成功し、いつしか蓮の記憶から宏一にまつわる全てのものが消失したのだった。

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