給湯室に一人残された知美は、ヒヨコ柄のお気に入りのコーヒーカップにお湯を満たし、個人持ちの紅茶のティーバッグを放り込んだ。それが徐々にお湯に馴染んでゆき、ジワジワと溶け出す紅茶の成分をボーッと眺める。その光景を見る度に彼女は、自分の中に澱のように沈殿する薄汚れた毒素が洗い流されてゆく、そんな感覚を覚えて微かな笑みが零れるのだった。


 取り上げたティーバッグのお湯を切り、三角コーナーの生ゴミの中にそれを投げ込んだ時だ。そこに同じフロアの手塚が顔を出した。彼も購買部に所属してはいるが、知美とは異なる原材料調達課に在籍している。従って、その業務内容から海外出張も多く、知美にとっては『顔は見たこと有るが、名前はまだ知らない』といった類の先輩社員である。

 彼の出現を視界の隅で認識した知美は、顔を背けたまま場をそそくさとその去ろうとした。もう彼女の顔には、先ほどまでの柔和な笑みは無く、むしろ緊張するかのように青ざめてすらいる。名前も知らない先輩社員と気軽に声を交わせるほど、彼女は社交的ではないのだ。

 しかし、同じフロアに配属された新人の名前は、先輩社員にとっては容易に記憶に残るもので、それは出張で席を空けがちの手塚にとっても同じだ。ましてや違う課に所属する彼は、知美のキャラを把握してはいないながらも、名前だけはしっかりと認識していたのだった。

 「あっ。おはよう、新田さん。どう? もう仕事は慣れた?」

 まだ会社に馴染み切っておらず、四苦八苦しているような様子の知美に、手塚は優し気に声を掛けた。早く慣れて、購買部門のメンバーとしてどんどん仕事をして貰いたい。そんな想いで掛けた言葉だった。


 しかし知美の受け取り方は、手塚が意図したものではなかった。


 立ち去ろうとしていた知美は、声を掛けられた途端に目を見開いて固まった。口許はワナワナと震え、手にしたカップからも紅茶が零れた。そして全身がガクガクと震えだし、給湯室の奥へと後ずさる。

 その異常な反応を見た手塚が、訳が判らず言葉を続ける。

 「??? どうしたの、新田さん? 気分でも悪いの?」

 そう言って伸ばされた手塚の腕に、知美は「ヒッ」と声にならない悲鳴を上げた。手にしていたカップを落とし、床には紅茶がぶちまけられた。それでも彼女がガタガタと震えながら後ずさり、遂に備え付けられていた分別用のゴミ箱に躓くようにして、その場に崩れ落ちる。

 盛大な音が鳴った。ペットボトル用のゴミ箱やら燃えないゴミ用のゴミ箱がガラガラといいながら倒壊し、知美はその中に尻餅をつくようにして倒れ込む。そんな状況に陥りながらも、彼女の目は手塚の顔を凝視し続けている。

 手塚は自分が手にしていたスチール製のマグカップを放り出し、慌てて知美に駆け寄った。

 「大丈夫、新田さん!? しっかりして!」

 手塚が彼女の足元で片膝を付くようにして両腕を伸ばした瞬間、予想だにしない声が給湯室をつんざいた。


 「ぎゃぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!」


 それは正に悲鳴だった。平凡な日々を送っていれば、およそ一生聞くことの無い程の悲痛な叫び。それを目の前で聞かされて、ましてやそれが自分に対して発せられたものであり、理不尽とすら言える誤解を覆い尽くさんばかりの絶叫。その状況を理解することも飲み下すことも出来ずに、動きを止めた手塚の前で知美は風に吹かれた蝋燭の炎のように、パタリと気を失った。


 その声を聞き付けたのか、誰かが駆け込んできた。

 「どうしたんですかっ!?」

 手塚が恐る恐る振り返ると、そこには面識の無い女子社員が立っていた。

 「い、いや・・・ 突然、新田さんが・・・ お、俺は何もしてない。本当だ、俺は何もしてないんだ。この娘が急に・・・」

 しかし女子社員は手塚の言い訳じみた声には耳を貸さず、彼を押し退けるようにして知美に近付いた。そして知美を挟んで手塚の反対側にしゃがみ込むと、そのままの姿勢で彼を睨み付ける。その視線をまともに受けて、彼は慌てふためいた。

 「本当だよっ! 俺は何もしてないんだ、信じてくれよっ! 俺は・・・」

 「もう判ったから!」

 そう言って彼の言葉を遮ると、倒れている知美に向かって声を掛けた。

 「ねぇ、大丈夫? しっかりして」

 優しく肩を揺すられた知美がうっすらと目を開けると、女子社員は彼女に覆い被さるようにして顔を覗き込む。そうやって彼女の視線を引き付けておきながら左手は手塚に向けて「シッシ」と振られ、彼女に気付かれないようにサッサと立ち去ることを要求したのだった。

 手塚はどうすることも出来ず、声を出すことも無しに黙ってその場を去った。


 知美は抱き起されながら、弱弱しい声で聞いた。

 「あの・・・ あなた・・・」

 「私? 私は総務部の・・・ んなことは気にしなくていいの。たまたま通りかかったところに悲鳴が聞こえたから駆け付けただけ。

 それより立てる? 二階の保健センターで、暫く横になってた方がいいよ。産業医の先生がいれば診て貰えるし」

 知美を元気付けるつもりなのか、OL姿の玲は必要以上に明るい声で促した。

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