「貧血ですかね? 今日、ちゃんと朝ご飯食べてきましたか?」

 知美の前に座る産業医が、ジロリと伺うような視線を投げかけた。薄くなった頭は脂っぽく照りが出て、中年太りのお腹はみっともない程に突き出ている。お前にだけは、メタボがどうのとか言われたくない医者の典型だ。

 「は、はい・・・」

 問診を受けている知美に、玲が背後から小声で言う。

 「んじゃ、私はこれで」

 しかし知美は丸椅子の上で振り返ると、必死な形相で玲の腕を掴んだ。そして切羽詰まった様子で懇願する。

 「お、お願いっ! 行かないで! 一緒にいて!」

 「えっ・・・ で、でも・・・」

 「お願いだから! お願いします、私を一人にしないで下さい・・・ 一生のお願いです」

 そう言って頭を下げる知美に、尋常ではない何かを感じ取った玲は「判ったわ。じゃぁ一緒にいてあげる」と言って、再び知美の背後に立った。すると知美は安心したように顔の緊張を解き、クルリと産業医に向き直ったのだった。


 すると知美の頭越しに、彼女の正面に座る産業医と玲の目が合った。無精ひげだけならともかくも、鼻毛や耳毛まで風にそよぐその姿は、開業医であったならだれ一人として訪れる患者は無いであろう。企業に雇われている産業医だからこそ、やっていけているに違いない。

 玲は思わず顔を背け「ぷっ」と笑いを漏らす。彼女は口許を手で押さえながらも、プルプルと震えながら今にも大爆笑しそうな視線を産業医に送った。その目はこう言っていた。

 (何やってんの、レー姐さん! それ、オッサンじゃん! 笑かさないでよ、まったくもう!)

 それを見た産業医は、怒りに満ちた目で睨み返す。その目はこう言っていた。

 (しょうがないでしょ、あなたの夢の中なんだから! そもそもあなたが医者に対して、こういうイメージしか持ってないから、こういうことになるのっ!)


 レー医師が知美に言う。

 「身体の方に異常は無いようですね。それでは、気分が直るまで、隣の仮眠室で少し休んでいって下さい。あっ、内側から鍵を掛けるのを忘れないで下さいね」

 そう促された知美は、玲に連れられて診察室を後にした。

 そして暫く経つと、診察室のドアをノックする音が聞こえた。レー医師が「はい」と返事をすると、ゆっくりとドアが開き玲が顔を覗かせた。彼女はもう既に笑っている。

 その顔を見た途端、レー医師の怒りが爆発した。

 「ちょっと! どうしてくれんのよ、これっ!?」

 「わははははーーーーっ!」



 「で? あの娘はどうしたの?」

 たっての頼み(?)で、気の利いた女医に変身させて貰ったレーテーが聞いた。玲としても、先ほどのオッサン産業医が相手では、とてもまともに会話が成立しそうにはなかったからだ。

 「直ぐに眠っちゃったみたい。最初は不安そうにしてたけど、眠るまで仮眠室の前で見張っててあげるって言ったら安心して」

 「そう。それなら良かった。でも、あの娘じゃなかったでしょ、最初に目を付けてたのは?」

 「うん、そうなんだけど、さすがにあんな取り乱した姿を見せられたら、放っておくわけにはいかないでしょ? やっぱり、人としてさぁ」

 「まぁね。あなたならそうすると思ったけどね」

 レーテーは白衣の胸ポケットからボールペンを取り出すと、その後ろを噛みながらそう言った。女神のくせにそんな癖が有るのかと玲は可笑しくなったが、また怒られそうなので黙っておくことにする。

 「あの人さぁ。どうしてあんな風になっちゃったんだろう?」

 「さぁ。何か嫌な記憶でも有るのかしら? ほら、さっきあなたが出て行こうとしたら、異様に嫌がったでしょ? 男の人と二人っきりになるのが怖いみたいだったけど」

 「トラウマみたいなものかしら?」

 「かもね」

 「もしかしてレー姐さんって、それを・・・」

 レーテーは目を丸くして玲を見た。

 「それは記憶の返却とは関係無いでしょ? 余計なことに首を突っ込むのはやめなさいってば」

 「ねぇ、レー姐さんってばぁ。お願い」

 玲は両手を顔の前で合わせて、拝みながら甘えた声で言う。しかしレーテーは、それは女神に対しては何の意味も無い動作であることを今日こそは教えてやらねば、と思ったのだった。私は仏様じゃありませんって。

 「そんなの、ただの興味本位と変わらないじゃない。勿論、あなたがそんな考えで言ってるんじゃないってことは判ってるけどね。でも、勝手に人の記憶を覗くなんてこと、するべきじゃないのは判ってるでしょ?

 そもそも合掌という動作は、仏教において意味を持つ行為であり・・・」

 「でもさ、でもさ」玲は椅子を滑らせて、レーテーにグィと顔を寄せた。「もしあの人が、記憶に何らかの問題を抱えているんだったら、それを取り除いてあげることが出来るかもしれないでしょ?」

 レーテーにとってそれは「出来るかもしれない」ことではなく「出来る」ことだ。人に記憶を戻す作業に比べれば、その一部を削除することなど、記憶を司る女神である彼女にはいとも容易い。しかし・・・。

 「玲。あなたも判っていると思うけど、それは湖の水位を下げるどころか、むしろ上げてしまう行為よ。あなたには、自分が記憶の女神に仕える巫女であるという自覚は有るのかしら?」

 「そ・・・ それはそうなんだけど・・・」

 「それにあなた言ってたわよね? 人は過去を知ることで、より積極的に自分の人生に関われるんだって。運命を受け入れるのではなく、自らの意志で道を切り開けるんだって。違ったかしら?」

 「・・・・・・」

 玲はやり込められてしゅんとした。叱られている子供の如く俯いた。しかし、言い返すことは出来ないとしても、心の奥底では自分の考え方は間違ってはいないのだという、確固たる信念のようなものがひしひしと伝わって来る。正論を振りかざす偽善的な教師に対し、静かな反旗を振りかざす感受性豊かな子供の見せる沈黙のように。

 いつもそうだ。レーテーは玲には敵わないのだ。彼女の一途な想いに触れると、いつだってレーテーは思い通りにさせてあげたいと思ってしまうのだ。そしてそれを見守ってあげたいと思ってしまうのだ。レーテーは「ふぅ」とため息を一つ付いた。

 「でも、どうしてもそうしてあげたいのね?」

 玲はコクリと頷いた。レーテーはその姿を可愛いと思ってしまい、突如、自分の心の中に湧いた不思議な感情に狼狽え、「ゴホゴホ」という咳払いで誤魔化した。

 「そう。判ったわ。じゃぁ好きなようにやってごらんなさい。私はお手伝いさせて貰うから」

 玲の顔がパッと明るくなった。

 「ありがとう、レー姐さん! 私ね。自分にどうしてこんな力が宿っているのか、いまだに判らないの。でもそこには、きっと何かの意味が有るはずよ。

 私、レー姐さんのことが大好き!」

 玲がレーテーに抱き付いた。それを受け止めながら、レーテーは呆れ顔だ。

 「はぁ、これで決まりね。決定的だわ・・・」

 「何が決定的なの?」

 「あなたはそんなこと気にしなくていいの。さぁ、早くあの娘を闇の中から救ってお上げなさい」

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