第四話:壊れたペンシルケース

 電車に乗り込んできた老婆が辺りを見回す。それほど混んでいるわけではないが、全ての席は埋まっていて、そこここに吊革に掴まって立っている乗客がいる。朝の通勤ラッシュでもなく、かといってガラガラな時間帯でもない。夕方の込み合う時間帯に向けて、そろそろ乗客が増えだす。そんな頃合いだ。

 スマホゲームに夢中なサラリーマン風の男。同じくスマホでコミックを読みふけるOL風の女。学生らしき青年は黙想するかのように、耳に嵌めたイヤホンの音楽に没頭しているようだ。若いカップルは人前も憚らずにベタベタ、イチャイチャし、制服に身を包んだ高校生らしき一群は受験勉強なのか、それとも期末考査期間中なのか、おしゃべりもせず参考書に首ったけ。ドアの前を占領するように立つ若い女の子のグループは、近所の女子大の学生なのだろう、黄色い声で取り留めもない話題に大盛り上がりの真っ最中。

 誰一人として、その老婆のことなど気にしていない。いや、殆どの乗客が彼女が乗り込んできたことにすら、気付いてはいなかった。


 老婆は仕方なく女子大生を避けて、乗り込んできたドアの反対側に移動し、車体から伸びる金属製のパイプを握った。彼女の身長で吊革を握ると、不自然に背伸びをしたようになってしまうからだ。

 するとその直ぐ隣、長い座席の一番端に座っていた一人が席を立った。

 「お婆さん、どうぞ座って下さい」

 今時珍しい学ランに身を包んだ高校生だった。その襟には、県内で有数の進学校の証である校章が光り、その手には「高等学校物理II」の参考書が握られている。彼の通う男子校では基本的に登下校時の服装は自由とされており、勉強をするのに相応しくない服装でない限り、その選択は生徒の自主性に委ねられている。しかしながら、ファッションだの流行だのには興味の薄い優等生の男子が集まる質実剛健の校風からか、自発的に学生服を選択する生徒も多い。彼もその一人だ。

 「あぁ、どうもすみませんね」

 老婆が礼を述べて空いた席に座ると、蓮はにこやかに笑った。

 「いいえ。どうせ僕は次の駅で乗り換えですから」

 そう言って黒いデイパックを足元に置き、金属製のパイプに背中を預けた蓮は、再び物理の例題に取り組み始めたのだった。


 大学受験を控える蓮は、校内でも優秀な生徒の一人だ。数学や物理に長けた彼は、当然ながら文理選択で理系を選んでおり、理工系の学部を目指して猛勉強中である。目標としては難関私立の理・工ということになっているが、彼自身、現代文などの成績が比較的良い方なので、そのアドバンテージを最大限に生かして旧帝大の工学部という選択肢も視野に入れていて、両親からは学費の安い国立を勧められている。

 特にMARCH出身である彼の父親は、名門といわれる有名私大出身であったとしても、会社内では ──東大・京大、或いは早慶の連中とは異なり── 代替えの利く使い捨てのように扱われる実情を知っており、息子にはそういった思いをさせたくないと強く願っていた。そしてそれは、蓮にも痛いほど伝わってくるのだった。


 武蔵浦和に到着した電車がドアを開くと、多くの客が席を立った。蓮もその人波の後ろに付いて、ホームへと降り立つ。代わりにホームで電車を待っていた人たちが一斉に乗り込み始め、乗降客が交錯する。その一瞬に後ろを振り返ると、先ほど席を譲った老婆が微笑みながら頭を下げていた。それを見た蓮は軽く微笑み返してから、足早に移動する人たちに紛れて一階へと降りる階段に向かって歩き始めた。ここで埼京線を降り、府中本町方面行の武蔵野線に乗り換えるのが彼の通学路線だった。

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