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武蔵野線のホームで電車を待つ。その間にも参考書を閉じることは無く、立ったまま物理の解法を頭に刷り込む蓮。
その時だ。グレーのブレザーの裾からシャツをだらしなく垂らし、スラックスも骨盤に引っ掛ける様な穿き方をした、一見して近郊の私立高校の生徒と思しき三人組が蓮の前に差し掛かった。彼らは何やら芸能関係の話題で忙しいらしく、蓮の存在に気付いていない。
黄色い線の内側に立ち、参考書に視線を落とす蓮と、ホームのギリギリをバカ騒ぎしながら歩く彼らが交錯した瞬間、そのうちの一人の肩が蓮の参考書に触れた。
バサリッ・・・。
突然のことに目を丸くした蓮は、驚きの表情で三人を見つめた。ぶつかった一人は気怠そうな視線を足元に転がる参考書に落とし、次いで蓮の顔を振り返る。そして「チッ」と舌を鳴らしたかと思うと、そのまま何も言わず、先を行く二人に追いすがるように立ち去った。
たなびく風がページをめくるに任せている参考書を拾い上げた蓮は、その表紙に付いた埃をパンパンと払い落とすと、直ぐに先ほどまで見ていたページを探し始めた。
ただし小声で ──例の三人組には、間違いなく聞き取れないほどの小さな声で── 「クズが・・・」と漏らした。
その時、背後から見知らぬ女が声を掛けてきた。
「せっかく覚えた公式も、今ので飛んじゃったわね? クスクス」
驚いた蓮が振り返ると、小綺麗なスーツに身を包んだ中年女性が可笑しそうに笑っていた。
「え、えっとぉ・・・」
「あなたK高の子でしょ? 私、数年前まであそこで数学教えてたのよ。その校章、懐かしいわ」
「あぁ、そうだったんですか」
「三年生? 物理IIってことは理系クラスね? 担任は市川先生かしら?」
そう言いながら女教師は蓮に近付き、その横に並んだ。
「いえ、市川先生はCクラスで。僕はBで名取先生が担任です」
「あら、そう? 生物の先生が三年の担任なんて珍しいわね」
目を丸くする彼女に、蓮も顔をしかめて見せる。
「そうなんです。ご本人も荷が重いってボヤいてます」
「あははは! 名取先生らしいわ。物理はね、数学と同じで色んなパターンの問題に触れておくことが大切よ。特に難関大学を目指すのなら、各大学の特色を踏まえた出題パターンに慣れておくことが重要・・・ って、こんなこと、今更言われなくっても判ってるか」
「いえ、有難うございます。基礎はだいぶ固まって来たんで、そろそろ二次試験にフォーカスした対策に移ろうかと思ってたんですが・・・」
「あはは。あの子たちのせいで」と、ホームの奥の方で騒いでいる三人組を顎で指す。「せっかく覚えたのに、何処か行っちゃったわね」
「大丈夫です。ちゃんとここに入ってますから」
そう言って蓮は、笑いながら自分の頭を人差し指でトントンしてみせた。
「そう?」
「えぇ。彼らみたく、何もかも忘れて自由気ままに生きていられたら幸せなんですけどね。今日習ったことも、明日には忘れてる。目先の快楽だけを追い求めて、それでも構わないし気にもしない。気楽なもんです」蓮は本当に羨ましそうに、先ほどの三人組を遠目で見る。「でもきっとそんな生き方、僕には耐えられないなぁ・・・ ある意味、羨ましいです」
女教師の目がキラリと光った。
「ふぅ~ん。あなたは勉強だけでなく、過去の経験や教訓を忘れることなく今に活かしつつ、未来を見据えている・・・ って感じかしら? 立派だわ」
「そんなことは無いです。人として当り前のことだと思います」
照れたように頭を掻く蓮に、声のトーンを落とした彼女の声が投げ付けられた。
「本当にそうかしら?」
「えっ?」
会話の流れを急激に方向転換させる言葉に、蓮は意外そうな顔をする。
「本当にそうなのかしらねぇ?」
「・・・・・・」
「あなただって、過去に有った大切なことを忘れてたりしない? そして、それを忘れていることにすら気付いていない・・・ なんてこと、無いかしら?」
彼女の意地悪そうな視線に射すくめられ、蓮は言葉を濁す。
「そ、それは・・・」
「あははは。気付くわけ無いわよね。だって忘れてるんですもの」
「あ、あなたは・・・ いったい・・・」
彼女はにこやかな表情を崩すことなく、ただし若干の厳かさを混ぜ込んだ顔で蓮を見た。
「私? 私は玲。ただのしがない女教師だけど、貴方の失った記憶を取り戻して差し上げることは出来るわ。どうする?」
突然、声の調子を変えた彼女にたじろいだ蓮は、その意図が読み取れず、慌てて質問を返す。
「な、何を言ってるんですか? 僕が何を忘れてるって言うんですか?」
「あなたが羨ましがっているあの三人組と、あなたはどれ程の違いが有るのかしら? ひょっとしたら彼らと同等、もしくは彼ら以下の存在かもしれないわね。あなたの記憶から、そういった大切な部分が抜け落ちてなければいいんだけど・・・」
玲の挑発は、蓮の心の的のど真ん中突き刺さった。ああいった不真面目な連中と一緒にされるのを、何よりも嫌っている蓮が思わず声を荒げる。
「僕をあんなクズな連中と一緒にしないで下さい! 彼らに対し引け目を感じなければならないような過去は、僕には有りません。そんな記憶、最初っから無いんです。もしそんな記憶が本当に抜け落ちていると言うのなら、それを取り戻して頂けませんか? その上で僕を非難して下さい! それから僕が正しいのか、あなたが正しいのか見極めようじゃありませんか!」
玲は細めた目で蓮を見据えた。
「私が戻してあげた記憶は、生涯忘れることが出来ないんだけど・・・ いいかしら?」
「さっさとして下さい」
「これが最終確認よ。記憶を戻していいのね?」
「いいんですか? 引き下がるなら今ですよ」
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