ふと顔を上げると、玲は波一つ無い湖面を滑るように進む小舟に乗っていた。何処かの高原の湖だろうか? 遥か彼方に霞む山々は、まるで薄墨で描かれた絵画のように、幻想的に湖を取り囲んでいる。音も無く滑る小舟は、彼女が身動みじろぎをする度に「ギィ・・・」と微かに軋んで鳴いた。

 確か、つい今しがたまで自分は泣いていたような・・・

 「玲」

 背後から掛けられた声に驚いて振り返ると、そこにはレーテーがいた。

 「レー姐さん!?」

 「綺麗でしょ、ここ?」

 「ここは?」

 「ここが冥府に有る『忘却の湖』です」

 「め、冥府!? じ、じゃぁこれって三途の川みたいなもんでしょ? どうしてくれんのよ!? 私、死んじゃったじゃないの!」

 レーテーはため息交じりに言う。

 「馬鹿ね。死んでなんかないわよ。ちゃんと送り返してあげるから、安心なさい」

 「そ、それならいいけど・・・」

 「昨日の約束、覚えてる? あなたの家の井戸が、ここと繋がってるって所まで話したはずだけど・・・ ってか、なに赤い顔してんのよ?」

 間近で見るレーテーがあまりにも美し過ぎて、同性ながらドギマギとしてしまった玲は、妙な気分になって赤面していたのだった。それでは新橋辺りの酔っ払いオヤジと同じと言われそうだが、シルクと思しき薄手の服を通して、スタイルの良い曲線が艶めかしく透けて見えるのを直視できない。と同時に、井戸を覗き込んだ時に彼女と自分を混同してしまった自分の愚かさに、なんとも言えない気恥ずかしい思いも抱いていた。

 そんな自分を胡麻化すために、玲は必要以上に元気よく応える。

 「ううん、何でもない。気にしないで。ウチの井戸でしょ? もちのろんよ! ・・・ってお父さんが良く言ってるけど、どういう意味なのかしら? いや、そんなことはどうでもいいや。夢に手を出すなみたいなこと言ってたわよね、レー姐さん?」


 玲の質問に答えることなく、レーテーは静かに話し始めた。


 「人々が忘れてしまった記憶 ──忘却記憶── は、冥府に有るこの湖を湛える水となって保存されています」

 「忘却記憶???」

 「そう。人類の存続を危険に曝すような事態が記憶の消失によって起こらないよう、そういった不測の事態に対処するための安全装置として、それらの記憶が遠い過去から連綿と保存され続けているの」

 「ちょっと待って。それって無理が有るんじゃない?」早速、玲が茶々を入れた。

 相手が女神だろうが、ここが冥府だろうが、玲はお構いなしである。おそらく彼女が地獄に落ちたとしても、閻魔大王を指差して『あんたの顔、ウケる~』くらいは言いそうだ。いや、言うに違いない。

 「だって人類が地球上に発生して以来、ずっと溜め続けてるってことでしょ? それじゃ、どんどん増えっ放しじゃない」

 レーテーがクスリと笑う。

 「その通り。今あなたが言った増え続けていることが問題なわけだけど、その件に関しては後から説明するわ。

 まず、この忘却記憶は必ずしも増え続けるとは限らないのよ。それは人が死ぬ間際、その人の忘却記憶を全て当人に戻してあげることによって、一旦はここに蓄えられた記憶を消費することが可能なわけ。

 人が記憶として保持したまま死を迎えれば、その記憶は完全に消去されて未来永劫、復活することは無いわ」

 玲はパチンと指を鳴らす。

 「あっそれって、よく言われる『死ぬ間際に記憶が走馬灯のように』ってやつかしら?」

 「ご名答。人はこの記憶の返却過程を、そういった言葉で表現しているわね。

 だから、過去からの忘却記憶を蓄え続けていると言っても、それが天文学的な数字となって無尽蔵に増え続けるわけではないのよ」

 「なるほど。やっとこの世界観が見えてきたわ。人々に記憶を戻すってのが主要テーマなわけね?」

 「やめてよ、そんな言い方。まるで退屈な三文小説みたいじゃないの」レーテーは渋い顔をした。

 「で? そうやって消費する筈の記憶が消費できなくなってるってことかしら?  だから夢に干渉するんじゃなく、記憶の消化を促せと?」

 「妙な所で勘が鋭いわね、あなたって。正確に言うと、慢性的な人口増加傾向に歯止めが掛からないこと、更に近年の医療技術の進歩によって人間の平均寿命が飛躍的に延びたこと、この二つを主要因として、思うように記憶の消費が進まないわけなのよ。その結果、忘却記憶の備蓄量が上限に達し、湖が決壊しつつあるの」

 「ふぅ~ん・・・ 私のスマホのストレージがパンパンになってるのとまるで同じね。んで、増え過ぎるとどうなっちゃうわけ?」

 「この湖から無作為に溢れ出した記憶は、無秩序に人々の上に降り注ぐわ。そうなると、全く関係の無い第三者の脳に、それらの記憶が定着してしまうのよ。考えてもみて。突如、知らない誰かの記憶が頭の中に溢れてきたら、いったいどういうことになるかしら? あなたの恥ずかしい記憶が、見知らぬ人の手に渡るのよ。

 そういった記憶の中には、ひょっとしたら大切な金庫の暗証番号とか、大量破壊兵器の発射ボタンのパスワードなんかも含まれているかもしれないわね。もしそうなったら、人間界のあらゆるシステムが破綻することになるでしょ?」

 「それで私の夢を使って、人々の記憶を戻しているってわけだ」

 玲はさも納得したかのように、腕を組んで頷いた。

 「その通り」


 「んん~・・・ 話は判ったけど、疑問点は山積みね。まず、私が一人でチマチマと記憶を戻したって、たかが知れてるんじゃない? それでこの湖の水位が下がるとは思えないな。もっと効率的な方法は無いのかしら?」

 やっぱりこの娘、頭は悪くないんだわとレーテーは思った。

 「まず最初の質問に答えるわ。話は簡単。巫女はあなただけではありません」

 「えっ? あっ、そうなんだ?」

 「えぇ、あなたのような巫女は、私が取り仕切っているだけでも数百人はいるわ。あなたはその中の一人という扱いよ。更に、私のように多くの巫女を従えている女神が、他にも沢山いるの。

 今は緊急事態だから、記憶とは関係の無い女神たちも、総出で記憶消費に取り組んでいるわ。労苦を司るポノス、戦いの神マケ。飢えを呼ぶリモス。、破壊神アテなどなど。答えになったかしら?」

 「その他大勢の中の一人に過ぎないって言われれば気分は良くないけど、ま、まぁ仕方がないわね」

 玲は面白くなさそうにしながらも、渋々の同意だ。

 「あははは。心配しないで。数いる巫女のうちでも、あなたは特別なのだから」

 「特別? 私が? 私の何処が特別なのよ?」

 「私たち女神の指示に従わず、勝手に夢に干渉する不良巫女・・・・のあなたは飛び切りの問題児よ。私たちが巫女の夢の中で、彼女たちの存在を借りて成そうとしていることを、あなたは妨害しているのだから。本来、玲は ──あっ、これは夢の中のあなたのことね── 私にコントロールされた別人格であるはずなのよ。それなのにあなたったら、どういうわけかそこにちょっかいを出す能力を持っているの。だからここまで呼び付けられて、特別授業を受けさせられているってわけ」

 「それって素行が悪くて、職員室に呼び出された不良と同じじゃない!」玲のほっぺたがプックリと膨らんだ。

 「それからもう一つの質問。もっと効率的な方法は無いのかって話」

 「そうそう、それが重要よ! 何かいい手、有るの?」と身を乗り出す。

 「有るわ」

 「だったらそれをやればいいじゃない! 私みたいな罪も無き乙女を駆り出したりしないでさ」

 「飢餓と疫病と戦争」

 「えっ・・・」

 玲が目を剥いて固まった。

 「それらのどれでも多くの人間が命を落とすわ。彼らが死ぬ間際に記憶を戻してやれば、さぞや効率よく消費できるでしょうね」

 「・・・・・・」

 レーテーの意地悪な言い様に、玲は口をつぐんだ。

 「でもそうはしたくないから、あなたたちの夢を利用させてもらっているのよ。地道な作業だけど、今はそれしか無いの」

 ひょっとして、過去に起こった戦争も疫病も、慢性的な食糧不足による飢餓も、全て女神たちの仕業なのだろうか? 湖の水位を下げる為に、彼女たちが故意に引き起こしたのだろうか?

 「湖の記憶が溢れてしまった時の惨状と比較したら、どちらがマシかしら? あなたならどちらを選ぶ?」

 そう聞き返されそうで、玲にはどうしても聞くことが出来なかった。


 「さぁ、そろそろあなたの・・・・夜が明けるわ。あなたは今夜のお仕事・・・に向けて目を覚まして頂戴」

 「あっ、ちょっと待って! まだ聞きたいことが沢山有るのっ!」

 「あなた、今日は現代社会の提出物が有るんじゃないの? 忘れてたでしょ?」

 「ああっ、確かにっ!」

 「さっき、たまたまあなたの記憶が漂ってるのを見掛けたから、拾っておいてあげたわよ。クスクス・・・」

 「あちゃー・・・ まったくやってない・・・ つぅーか、この現社の記憶、『一生忘れられないけど宜しいですか?』って例のやつ?」

 「あははは、そういうことになるわね。まぁ、それくらいの記憶、覚えていたって大した負担にもならないでしょ。思い出だと思って、一生取っておきなさい」

 「そんなぁ・・・」



 ジジジ・・・ ジジ・・・ ジジジ・・・


 玲は優しく目覚まし時計のストップボタンを押した。いきなり目が冴えていた。彼女の乱暴狼藉により、その目覚まし時計はもう虫の息だったが、そんなことは気にならなかった。

 どうして自分の夢を、誰かの記憶を取り戻すことに使うことが出来るのか? そんな基本的な疑問を問い質す前に夢から覚めてしまった。今度、レー姐さんに逢った時に聞かねばなるまいと玲は思った。


 そして「それよりも・・・」と彼女は思うのだった。


 飢餓も疫病も戦争も御免だ。だったらやるしかないじゃないか。たとえ小さな力でも、自分の出来ることを精一杯やるしかないじゃないか。どうして自分が巫女として選ばれたのかすらも、まだ聞かされてはいないが、自分がすべきことは明確なのだ。

 玲はベッドの上で拳を握り締めるのだった。

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