挿入話:池の畔にて

 庭の一角にある、忘却の湖から水を引き込んだ池を覗き込んでいたレーテーは、母であり、災いの女神でもあるエリスが背後に立ったことに気付きながら、特に反応は示さなかった。母が何と言うか、彼女には既に判っていたからだ。さっきまでのにこやかな表情を仕舞い込み、むしろ判決文が読み上げられるのをジッと聞き入る罪人であるかのような沈痛な面持ちだ。その姿は、友人との楽し気な会話を見咎められた少女のようにも見えた。

 エリスはそんなレーテーの肩に、そっと手を乗せた。

 「これが例の巫女ね?」

 「はい、お母さま。彼女は玲といいます」レーテーは池の水面から目を離さず言った。

 「勝手な行動を許してはなりませんよ。自分を慎みなさいと、釘を刺すのです」

 「はい。仰せの通りに」

 「よろしい。さもなくば災いを司る女神であるこの私が・・・」

 「判っております」

 レーテーは母の言葉を遮るように、ほんの少しだけ声のトーンを上げた。そして直ぐに、元の静かな口調に戻る。

 「判っております、お母さま。お母さまにご台臨頂く事態にならぬよう、万全を期しております故、どうぞご安心下さい。お心遣い、有難うございます」

 エリスは細めた目でレーテーの横顔を見つめた。

 「・・・ならばよいでしょう。しっかりと頼みますよ」

 ポンポンと彼女の肩を叩いたエリスは、そう言い残して神殿へと歩み去った。レーテーはこの間、一度も母の方を見ようとはしなかった。


 その時だ。庭と湖を隔てる細やかな森の木陰から、「クスクス」と可笑しそうに笑う声が聞こえた。レーテーが声の方を振り返ると、樺の樹に寄り添うように立つ二つの影が見えた。その影は母が立ち去ったことを確認し、レーテーに歩み寄る。それらは彼女の妹である、ポノスとアテだ。

 彼女たちもレーテーと同じように、ディプロイス(折り込み)をあしらったキトーンを身に纏っていたが、薄紅色を着たポノスに対し、まだ幼いアテが着るのは、折り込みが無くドレープも少ない黄色いキトーンだ。その代わり髪には水仙の花を挿し、可愛らしさを演出している。

 そもそも彼女たちの着るキトーンに浮き出るドレープの数は、その位に比例しており、妹よりも姉、更に母と位が登るにつれ、その数が増す。

 「レテお姉さまったら、相変わらずね。お母さまも寛大でいらっしゃること。ククククッ」

 次女のポノスがさも楽し気に忍び笑いを漏らす。彼女と並んでレーテーの様子を窺っていた末っ子のアテも笑いを堪え切れないようだ。

 「アハハハ。レテお姉ちゃまってば、今にお母さまに怒られちゃうんだから。私、知ぃらない。アハハハ」


 レーテーは『レテ』という自分の本来の名前を嫌っていた。むしろ彼女が、愛称である『レーテー』と呼ばれることを好んでいるのを知っていて、二人はあえて『レテ』と呼んでいるのだ。


 「二人とも・・・ 聞いてたのね?」

 しかしポノスはレーテーの質問には答えない。

 「お姉さまがしっかりしてくれないから、私たちまでとんだとばっちりよ。ねぇ、アテ」

 「そうよ、ポノスお姉ちゃまの言う通りだわ。記憶を司るレテお姉ちゃまがだらしないから、湖が溢れそうになっているんでしょ? 私は破滅の女神。記憶なんて元々関係無いんだから。なんで私までレテお姉ちゃまの仕事を受け持たなきゃいけないのよ?」

 アテは、その可愛らしい頬をプクリと膨らませて見せる。

 「あぁ、可愛そうなアテ。まだこんなに小さいのに・・・」

 そう言いながらポノスは、アテの小さな身体を抱き寄せる。しかしその視線は、嫌らしくレーテーを見据えたままだ。

 「お姉さまのせいで、苦労を司る女神である私まで記憶の消費に駆り出されているなんて、この神界始まって以来の大失態じゃありませんこと? もう少し長女としての自覚を持って欲しいものだわ」

 妹に詰め寄られても返す言葉が無いレーテーは、視線を逸らして俯いた。

 「二人には済まないと思っているわ。そして感謝もしている。ポノス、アテ。本当に有難う」

 しかしポノスの口撃こうげきは止まらない。憤懣やるかたないといった様子だ。

 「だいたいお姉さまは人間に優し過ぎるのよ。女神である私たちが、人間に同情や共感をしていては世界が成り立たないわ。その軟弱な心を入れ替えない限り、お姉さまは皆に迷惑をかけることを避けられないのよ。違う?」

 「違・・・ わないわ。あなたの言う通りよ、ポノス・・・」

 レーテーは辛うじて、消え入りそうな声で答えた。しかし、アテがあっけらかんとした声で、レーテーの声を遮る。

 「ねぇねぇ、ポノスお姉ちゃま! 私、いいこと考えちゃった!」飛び切りのアイデアを思い付いたかのように、アテは瞳を輝かせる。「マケお姉ちゃまを焚きつけて、お母さまと一緒に人間たちにいくさを起こさせたらどうかしら? 災いの女神であるお母さまと、戦いの女神であるマケお姉ちゃまが共に手を組めば、大勢の人間が死ぬんじゃないかしら? そうしたら湖の水位も一気に下がるはずよ!」

 それを聞いてレーテーは目を剥いたが、同時にポノスも難しい顔をアテに向けた。

 「確かにあなたの言う通りなのだけど・・・ マケは思慮深くていけないわ。彼女はレテお姉さまに似て、人間に対する慈悲の心を持っているの。だから私たちの思惑通りになんてならないわよ。

 それに、もしお母さまがご台臨なさったら、マケなどいてもいなくても同じ。お母さまが聖なる槍を振るったら最後。その一振りだけで大勢の人間が死ぬことになるでしょう。私は直接見たことは無いけれど、レテお姉さまはご覧になったことが有るんじゃなくて?」

 ポノスに振られて、レーテーは渋々答える。

 「えぇ、ポノス。あなたの言う通りよ。お母さまがご台臨なさる時、それは人間界の崩壊の時に他ならないわ。お母さまは人間の血にまみれた鎧を着て、臓物の絡み付く槍をお振るいになるの。憎悪の火炎を吐きながら、槍の一振りごとに幾千人もの人間が死ぬのよ。

 だから・・・。だから変な考えを起こすのはやめて頂戴。マケやお母さまを焚きつけるなんて・・・」

 顔色を失うレーテーのことなどお構いなしに、ポノスはプィッと明後日の方を向いた。

 「ほぉら、始まった。レテお姉さまのご病気が。人間なんて私たちにとって、取るに足らない存在なのに。行きましょう、アテ。話にならないわ」

 「はぁ~い、ポノスお姉ちゃま。次は何して遊んで下さるの?」

 「次はねぇ・・・」

 スタスタと歩き出したポノスと、仔犬のように彼女に絡み付くアテが楽し気に去っていった。


 レーテーはホッと胸を撫で下ろした。彼女たちが言うように、もし母のエリスが台臨するような事態になったら、数えきれない程の人が死ぬことになるのだ。それにより湖の水位が下がることは間違いないが、何としてもそれだけは避けねばならない。その為には、自分がしっかりしなければならないことは、皮肉にもポノスの言う通りなのだと思った。

 三女である戦いの女神マケは大丈夫だろう。彼女は表立って意思表示はしないが、根の部分では私と同じ価値観を共有している。四女のリモスは飢えを司るが、彼女は周りの意見に流されたりせず ──その分、敵にも味方にも成り得るのだが── 淡々と自分の職務を全うすることを信条としており、ポノスたちの口車に乗ることは無いはずだ。


 そして・・・ とレーテーは思う。


 実は彼女が最も恐れているのは、末女であるアテだった。破滅の女神であるアテが無思慮に聖剣を振るえば、文字通り人類が終焉を迎えるのだ。その力が発動された時の恐ろしさは母を上回ることを知っているレーテーは、そうならないことを心から望みながら、遠ざかる二人の後姿を見送るのだった。

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