第八話:母の愛

 「それじゃぁ各自、自宅に戻って自分のパートを練習しておくこと」

 担当教諭の菊川の声も、彼女たちの振り撒く賑やかな空気に覆い尽くされてしまった。それを見かねた部長の春香が、追加で声を張り上げる。

 「ソプラノのメンバー、聞いて! ピアノのアルペジオが始まった所。あそこ気持ちが良いのは解かるけど、もう少し他のパートとのバランス考えて。矢野さん、あなたリーダーなんだから、パート練習でその辺の所は仕上げておいてね。

 それからアルト。ソプラノがBまで下がる所で押し込まれてるよ。これで男子が入ってきたら、もっと霞んじゃうから頑張って声量はキープして。香西さんのソロを下支えする旋律なんだから、彼女をサポートする意識を持って。

 メゾソプラノのメンバーは私と一緒に居残りよ。これじゃぁ東高との合同練習には間に合わないわ。今年の東高は活きの良いのが揃ってるらしいから、混声で恥ずかし思いしないようにしなきゃ」

 しかし、それを聞いていた菊川が困ったような顔で釘を刺す。

 「おいおい、松本。張り切るのも良いが、合同発表会にはまだ間があるぞ。そんなに追い込んでたら、息が詰まっちゃうんじゃないか? 特に一年なんか、今回が初めての発表会なんだし、もう少し楽しんで・・・」

 「先生。そんなこと言ってていいんですか? オケ部の第九はウチも東高も、もうかなり出来上がってるそうですよ。東高の合唱部も・・・ そりゃ男子校だから人数が少なくて、仕上がりが速いってのは判ってますけど、私たちだけ、まだ第九に着手できてないんですから。少なくとも全奏(全体演奏)までには、ある程度の形は整えておく必要が有ると思うんです。

 私、部長として伝統ある東女高合唱部の顔に泥を塗る様なことは出来ません。それはみんなも同じ気持ちだと思います」

 春香にやり込められた菊川は、バツが悪そうに頭を掻く。彼女は菊川と会話する時間すら勿体ないかのように、パンパンと手を叩きながら合唱部のメンバーに檄を飛ばす。

 「ほらほら、モタモタしないで。帰る人は帰って個人練。パート練で居残る人は、サッサと始めて! あっ、五十嵐さん。ごめんなさい、もう少しだけピアノ付き合って貰えるかしら?」


 そんな春香の様子を見ていた玲は、背中に氷でも入れられたかのようにブルリと震えた。そして、隣にいた同じメゾソプラノのメンバーである女の子を捉まえて、ヒソヒソとした声でこう言ったのだった。

 「春香先輩、怖ぇ~。あれに逆らったら、命が幾つ有っても足らないわね・・・」と、そこまで言って、彼女はポカンとした顔で相手を見詰める。

 相手は「何?」という顔を返す。

 「あなた、誰? ウチの合唱部の子?」

 そう尋ねる玲に、女の子は困ったような顔だ。

 「えっ、そうだよ。この前、入部したばっかりだけど・・・」

 「・・・・・・」

 無遠慮にジッと見つめられて、女の子がたじろぐ。

 「な、何?」

 突然、玲がその女の子に飛びかかった。そして相手の首をグイグイ締め上げながら叫ぶ。

 「正体を現しなさい! あなた、レー姐さんでしょ!? 判ってるんだからっ! 私の目が誤魔化せると思ってるのっ!?」

 「ちょ・・・ チョッと待って・・・ く、苦しいってば」

 「そこの一年、何やってるのっ!? 真面目にやれないんだったら帰りなさいっ!」

 春香の一喝で、二人はビシリと直立不動の気をつけをした。そして前を向いたままヒソヒソ声で小突き合う。

 「玲の馬鹿。あなたのせいで怒られちゃったじゃないの」

 「やっぱレー姐さんじゃない。何やってんのよ、こんな所で?」

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