「こんなの・・・ 許せないよ・・・」玲が泣いていた。

 「こんな想い出が有ったら、あの人は決して幸せになんてなれない。何が有ったって、心の底から笑うことなんて出来ない・・・。

 レー姐さん・・・ 私どうしたらいいの? 心が痛くて気が変になりそうだよ。こんな悲しみを抱えて生きている人がいると考えただけで、私は・・・ 私は・・・」

 「本当に・・・」

 グッディ化粧品本社の二階にある保健センターの診察室で、玲の肩を抱き寄せたレーテーも悔しそうに唇を噛んだ。彼女は初めて、人間に対する怒りを感じていた。これまで女神として、人間たちの行いを達観していた筈だった。それなのに今の彼女は、人間に対する失望と落胆に身を引き裂かれ、憤りに震える拳を止めることが出来ない。


 私情に流されてはいけない。それは女神が人間に相対する時の鉄則だ。さもなくば今のレーテーのように人間たちと同じレベルでの苦悶を味わい、身を焦がし、それによって適切な判断が出来なくなってしまうのだ。あの時の妹たちの言葉が蘇る。


 「だいたいお姉さまは人間に優し過ぎるのよ。女神である私たちが、人間に同情や共感をしていては世界が成り立たないわ。その軟弱な心を入れ替えない限り、お姉さまは皆に迷惑をかけることを避けられないのよ。違う?」


 レーテーは場違いな笑いが込み上げて来るのを、抑えることが出来なかった。そしてその微笑みは、直ぐに自虐の色を帯び始め、悲し気なものへと変わった。

 「ポノス・・・ あなたの言うとおりね。私は女神失格だわ。でも私は、このズキズキと疼く心の痛みを誇りに思う。私たち女神が忘れていたものを、今私は取り戻したのよ」

 玲は涙でグシャグシャになった顔を上げてレーテーを見た。

 「レー姐さん、何ブツブツ言ってるの?」

 レーテーも涙顔で「ぷっ」と吹き出した。

 「ごめんなさい。ちょっと思い出していただけ・・・」

 そう言って彼女は小首を傾げ、玲の頭に自分のこめかみを押し付けた。暫くの間そうやっていたかと思うと、レーテーは静かに言った。

 「じゃぁ、今からあなたに記憶を消す力を授けます。彼女を助けてあげて」

 しかし玲は躊躇した。

 「本当にいいの? 湖の水が逆に増えちゃうんだよ。レー姐さん、帰ってから誰かに怒られたりしない?」

 玲の言い草に、レーテーは思わず笑い出した。

 「あはははは。バカ玲! 人間のくせに女神の心配なんかするんじゃないわよ。私を誰だと思ってるの? 私はレーテ・・・」

 「レーテー、忘却の湖の番人」

 レーテーに先んじて玲が言った。そして二人はくっ付いていた身体を引き離し、お互いに顔を見合わせて吹き出した。

 「ぷっ・・・ あはははは。やだ、なんでレー姐さんまで泣いてるのよ? わははは」

 「クスクス・・・ あははは。うるさいわね、あなたに付き合ってあげてたんじゃないの」


 そしてひとしきり笑い合ってから、レーテーが言う。

 「さっ、あの娘が眠っているうちに、早く・・・」

 玲はコクリと頷いて、ギュッと目を閉じた。



 仮眠室の簡易ベッドの上で目を覚ました知美は、上体を起こして部屋の中を見回した。最初、それが何処なのか判らなかったが、ぼんやりとした頭に掛かる霞が晴れるに従い、自分がここに運ばれたことを思い出した。それと同時に、彼女をここまで連れて来てくれた誰かがいたことも。

 「あれは確か、総務部の・・・ あれ? 経理部だったかな? てか、誰だったっけ?」

 腕時計を見ると、もう直ぐお昼時。それを知った知美が飛び起きる。

 「いっけない! 午前中、ずっと寝ちゃった!」

 内側から鍵の掛かったドアを開け廊下に飛び出した知美は、六階の事務所に戻るためにエレベーターホールへと駆け出した。しかし直ぐに、産業医の問診を受けたことを思い出して踵を返す。そして保健センターにまで戻り、そのドアをノックしてみたが、既に先生は問診を終えて昼食にでも行ってしまったのか、返事は無くドアはロックされていた。

 仕方がない。また今度の機会に、と思った知美が振り返った瞬間、目の前に一人の男性社員が立っていた。


 以前の知美であれば、そのような状況では恐怖のあまり我を失い、悲鳴を上げたに違いない。ひょっとしたら卒倒していたかもしれない。しかし今の知美は違った。自分が、男性との接触を極度に恐れていたような朧げな記憶はあるものの、今の彼女にとってそれは、受け入れ難い苦痛などでは決してなかった。

 「新田さん? 良かった、元気そうで。大丈夫だった?」手塚だった。

 「あ・・・ 手塚さん・・・」

 「給湯室で倒れてからずっと戻って来なかったから、心配してたんだ。顔色も良さそうだね。安心したよ」

 その言葉を聞いて、給湯室での出来事がまざまざと蘇ってきた知美の心には、彼に対して済まない想いが溢れ出す。自分でも良く判らない。どうしてあんな風になってしまったのか? この手塚の、いったい何をそんなに恐れたのか? その申し訳なさが彼女の首を項垂れさせ、傍目に見たら手塚がまた彼女を困らせているように見えた。

 そのことに気付いた手塚が、アタフタと言い訳を口走る。

 「い、いや・・・ ほら。な、なんか俺が、新田さんを怖がらせちゃったみたいで、す、済まないって言うか・・・ なんかごめんね。俺、全然そんなつもり無かったから・・・」

 しきりに謝る手塚を上目遣いで盗み見ていた知美は、彼の必死な顔が可笑しくて、不謹慎だと怒られそうだがどうしても堪え切れずに笑い出した。

 「くっくっく・・・」

 両手に顔を埋め、肩を揺らし出した知美を見て手塚がパニックに陥る。

 「ホント、何もしないから! そんなつもり、全然無いからっ! だだだ、大丈夫だって! 怖がらなくてもいいって!」

 遂に知美が限界に達した。

 「あははははは」

 真っ赤な顔をした知美に顔を見返された手塚が、ポカンとした顔で固まった。

 「くっくっく・・・ ご、ごめんなさい・・・ わ、私・・・」

 その顔がまた可笑しくて、とうとう知美は吹き出した。今度は腹を抱ている。

 「ぶぅぅぅーーーーっ! あははははは・・・・」

 「に、新田さん?」

 「ひぃぃ・・・ ごめんなさい・・・・ あははは、ホントごめんなさい・・・」


 心の隙間を衝いて、また溢れ出しそうになる笑いを必死で抑え込みながら、知美は頭を下げた。その目は笑い涙がちょちょ切れている。

 「ごめんなさい。私の意味不明な態度で、手塚さんのこと傷付けちゃったみたいで。あっ、これ給湯室での話です。本当にごめんなさい。自分でも、どうしてあぁなっちゃったのか判らないんです。それから、ごめんなさい」

 知美は改めて、もう一度頭を下げた。

 「折角心配して来てくれたのに、バカ笑いしちゃったりして。私ってバカ。本当に申し訳ありませんでした」

 自分の頭を拳骨でコツンと叩く知美に、あっけに取られていた手塚の顔が笑顔を取り戻した。彼女の笑顔を見て罪の意識から解放され、胸のつかえが取れたかのような清々しい顔だ。

 「いやいやいや、全然大丈夫だから。それより新田さんが元気で、本当に良かった」


 キィーーン、コォーーン、カァーーン・・・


 その時、昼休みを告げるチャイムの音が廊下に木霊した。それを合図とするかのように、廊下に面したあちこち事務所や会議室から、社員たちがドヤドヤと流れ出てきた。

 知美と手塚はあっという間に人波に飲まれ、二人は押し流されないように廊下の隅に移動する。そして手塚がモジモジした様子で言う。

 「新田さん、お弁当は?」

 知美は黙って首を振った。

 「じゃ、じゃぁ、近くのお茶漬け屋さんでも行く? あそこ、何て店だっけ?」

 知美は手塚の顔を指差しながら応える。

 「茶膳屋! 私、あの店、一度行ってみたかったんです!」

 知美の笑顔に、手塚も笑顔を返した。

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