そっと触れたり離れたり
冷静になるしかない。そう気を引き締めながら、
身体が汗ばむほど熱かった。
珠花が用意した胸を強調した薄物の
誘っているって、誤解されたら、どうしよう。
(でも、誘っているじゃない、ちがう?)
「あ、あの」
「はい」
「なにを言えばいいの」
「なんでも、お好きなことを」
彼の声は限りなく優しい。
優しすぎて、悲しい。わたしは何を求めているのだろう。これから彼が与えてくれるものではないだろう。得たいものは得られないのだ。
最初からわかっているのに、それでも夢を見ている。その夢を信じることができないのは、わたしの問題で、彼のじゃない。
「あなたは、あなたは何を望んでいるの?」
「呼ばれたのは、あなたと、あなたのご友人です、麻莉王女」
「あ、あの。王女はやめてください」
「お望みでしたら」
「はい、そうしてください」
「では、どう、お呼びすればよいのですか」
「麻莉と」
彼は穏やかにほほえみ、そして、音調を吟味するように口のなかで軽く呟き、そして、「麻莉」と、ささやいた。
わたしの名前は、わたしから離れた。麻莉という名前を意識しすぎて気を失いそうになる。
「怒りましたか?」
「僕がですか」
「はい」
「怒っているように見えるのでしょうか?」
「いいえ。で、でも、あの、こんなふうにお呼びして」
「そういう気遣いは無用です。僕は、呼ばれれば出向きます。そのことに僕の気持ちなど関係ない。ただ、もし、お願いできるなら聞いていただきたいことがあります」
リュウセイは卓の向こう側に立っている。
その態度に
「あなたを楽しませるために来ました。時間は決まっています。その間は楽しんでいただきたい」
「わ、わたしは。あの、あなたといて楽しく、ない」
「それは、とても残念です。では、僕を呼ばれたことは失敗だったようですね」
「い、いえ、違う。緊張するの。あなたに会いたかった。会って話して、それから」
「それから」
「いえ、あの」
わたしは凍りついていた。リュウセイが立ったままで、
彼はほほ笑み、「ここに、すわらせてもらいます」と言って立膝で腰をおろして月琴を取り出した。きっと気遣いだろう、もう一度、「
わたしの名をふたたび……。
とても平凡な名前なのに、彼の唇から出ると特別な響きをおびて、その名前はなにか別ものになった。
「あなたのために演奏しましょう」
少し調律すると、いきなり弦を激しくかき鳴らす。それは、とても乱暴な弾き方で、優雅でも穏やかでもなかったけれど、気分がウキウキする曲だった。
「こんな曲は」と、次に彼は胸が痛くなるような美しい旋律を、魔術のようにつむぎ出して止めた。
「どちらのご気分ですか」
「あ、あの、隣にすわって弾いてくださる?」
「わかりました」
彼が近づくと、とてもいい匂いがした。男らしくもあり、妖美でもあり。
リュウセイがとなりに腰をおろした。立てた膝に月琴を休ませ、近寄りがたい顔でほほ笑む。
それから、水のせせらぎのような曲を爪弾いた。
リュウセイにとって、わたしはひとりの客に過ぎない。そのことに、特別な感情などない。そんなことはわかっている。
だから、わたしは感情的になる。
隣にすわる彼の肩に触れたいと強く願い。肩や、その顔や、髪や、身体に包まれたかった。それは、さぞ温かく、ゾクゾクするものだろう。
彼の音は冷静で、音階を正確に奏で、それでいて優しい。わたしを包む家族のようなぬくもりで、愛情深い兄がわたしのために月琴を弾いているようだ。
わたしは家庭を知らなかった。
母がいて父がいて、祖父母や兄弟姉妹がいて家族で食卓を囲む。そういう穏やかな普通の生活を知らない。
このとき、家族に囲まれた午後の陽だまりの優しい時間が過ぎていく。
木陰から、やわからい風が吹き、川のせせらぎが聞こえてくる。
リュウセイは数曲つま弾いたあとで、弦を手で止めてわたしを見た。それから、首を傾け、弦に置いた指を外して、ふいにわたしの頬に触れた。
「どうか、泣かないでください」と、彼は言った。
わたしは……、涙をながしている。
「ごめんなさい……。これは悲しいからじゃないの。家族を考えていたら」
「王さまのことですか」
「そういうことではなくて。確かに父は王ですけど、いつも近くにはいませんし。母は亡くなっていて、わたしは家族のぬくもりを知らないのです。あまり、そういうことがわからないのです」
「そうでしたか」
「あなたを、なぜか兄のように思いました」
「僕のことを」
「ええ、あなたの音楽を聞いていると、家族があったら、こういうぬくもりがあったのだろうと、穏やかな幸せを感じたのです」
彼は返事をしなかった。
「わたしは、あなたのことを知りたいの」
「退屈な話です」
「でも、聞かせてほしい」
「それでは、僕が望む国の話をしましょう」
そして、彼は語った。
不思議な物語を。多くの人が平等で平和に暮らす豊かで美しい世界のことを。
彼の物語は郷愁にみち、唐突に終わった。
「どうしたの?」
「家族ということで思い出しました。国ではなく、いつかお聞かせしましょう」
彼はほほ笑みながら、隣りにすわっている。
ただ、その場所は居心地のよいものではない。
これ
わざと表面の生地をダブダブした布でおおった、大きめの
『だって、麻莉』と、彼女は言ったものだ。
『男って、案外とだらしがなくて臆病な生き物なのよ。だからね、きっかけを作ってやらなきゃいけないの』
『それが、どうダブダブの布と繋がるの』
『すわり心地の悪いザブトンでは長居はできないでしょ。それで、もじもじしている男に謝るのよ。仕立て屋が間違えて、寸法より絹布が多くしたからって。でね、居心地のいい寝台で、お話しましょうって誘うの』
それを聞いて笑ったものだ。
絹布は彼女の意図とおりに動きまわり、彼が楽器を鳴らすたびに、少しずつ身体が動き、リュウセイに、そっと触れたり離れたりしていた。
(つづく)
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