そっと触れたり離れたり




 冷静になるしかない。そう気を引き締めながら、すだれを下ろし、部屋の中心にある卓に向かった。

 身体が汗ばむほど熱かった。


 珠花が用意した胸を強調した薄物の襦裙じゅくん。乳房が大きく上下している。恥ずかしい……。


 誘っているって、誤解されたら、どうしよう。

(でも、誘っているじゃない、ちがう?)


「あ、あの」

「はい」

「なにを言えばいいの」

「なんでも、お好きなことを」


 彼の声は限りなく優しい。

 優しすぎて、悲しい。わたしは何を求めているのだろう。これから彼が与えてくれるものではないだろう。得たいものは得られないのだ。


 最初からわかっているのに、それでも夢を見ている。その夢を信じることができないのは、わたしの問題で、彼のじゃない。


「あなたは、あなたは何を望んでいるの?」

「呼ばれたのは、あなたと、あなたのご友人です、麻莉王女」

「あ、あの。王女はやめてください」

「お望みでしたら」

「はい、そうしてください」

「では、どう、お呼びすればよいのですか」

「麻莉と」


 彼は穏やかにほほえみ、そして、音調を吟味するように口のなかで軽く呟き、そして、「麻莉」と、ささやいた。


 わたしの名前は、わたしから離れた。麻莉という名前を意識しすぎて気を失いそうになる。


「怒りましたか?」

「僕がですか」

「はい」

「怒っているように見えるのでしょうか?」

「いいえ。で、でも、あの、こんなふうにお呼びして」

「そういう気遣いは無用です。僕は、呼ばれれば出向きます。そのことに僕の気持ちなど関係ない。ただ、もし、お願いできるなら聞いていただきたいことがあります」


 リュウセイは卓の向こう側に立っている。

 その態度に卑屈ひくつなところが少しもない。むしろ威厳いげんさえある。王女にこんな事を感じさせる男とは、いったい何者なんだろう。


「あなたを楽しませるために来ました。時間は決まっています。その間は楽しんでいただきたい」

「わ、わたしは。あの、あなたといて楽しく、ない」

「それは、とても残念です。では、僕を呼ばれたことは失敗だったようですね」

「い、いえ、違う。緊張するの。あなたに会いたかった。会って話して、それから」

「それから」

「いえ、あの」


 わたしは凍りついていた。リュウセイが立ったままで、たくの向こう側にいると気づきもしない。


 彼はほほ笑み、「ここに、すわらせてもらいます」と言って立膝で腰をおろして月琴を取り出した。きっと気遣いだろう、もう一度、「麻莉マーリ」と名前を呼んでくれた。


 わたしの名をふたたび……。


 とても平凡な名前なのに、彼の唇から出ると特別な響きをおびて、その名前はなにか別ものになった。


「あなたのために演奏しましょう」


 少し調律すると、いきなり弦を激しくかき鳴らす。それは、とても乱暴な弾き方で、優雅でも穏やかでもなかったけれど、気分がウキウキする曲だった。


「こんな曲は」と、次に彼は胸が痛くなるような美しい旋律を、魔術のようにつむぎ出して止めた。


「どちらのご気分ですか」

「あ、あの、隣にすわって弾いてくださる?」

「わかりました」


 彼が近づくと、とてもいい匂いがした。男らしくもあり、妖美でもあり。

 リュウセイがとなりに腰をおろした。立てた膝に月琴を休ませ、近寄りがたい顔でほほ笑む。


 それから、水のせせらぎのような曲を爪弾いた。


 リュウセイにとって、わたしはひとりの客に過ぎない。そのことに、特別な感情などない。そんなことはわかっている。

 だから、わたしは感情的になる。

 隣にすわる彼の肩に触れたいと強く願い。肩や、その顔や、髪や、身体に包まれたかった。それは、さぞ温かく、ゾクゾクするものだろう。


 彼の音は冷静で、音階を正確に奏で、それでいて優しい。わたしを包む家族のようなぬくもりで、愛情深い兄がわたしのために月琴を弾いているようだ。


 わたしは家庭を知らなかった。

 母がいて父がいて、祖父母や兄弟姉妹がいて家族で食卓を囲む。そういう穏やかな普通の生活を知らない。


 このとき、家族に囲まれた午後の陽だまりの優しい時間が過ぎていく。

 木陰から、やわからい風が吹き、川のせせらぎが聞こえてくる。


 リュウセイは数曲つま弾いたあとで、弦を手で止めてわたしを見た。それから、首を傾け、弦に置いた指を外して、ふいにわたしの頬に触れた。


「どうか、泣かないでください」と、彼は言った。


 わたしは……、涙をながしている。


「ごめんなさい……。これは悲しいからじゃないの。家族を考えていたら」

「王さまのことですか」

「そういうことではなくて。確かに父は王ですけど、いつも近くにはいませんし。母は亡くなっていて、わたしは家族のぬくもりを知らないのです。あまり、そういうことがわからないのです」

「そうでしたか」

「あなたを、なぜか兄のように思いました」

「僕のことを」

「ええ、あなたの音楽を聞いていると、家族があったら、こういうぬくもりがあったのだろうと、穏やかな幸せを感じたのです」


 彼は返事をしなかった。


「わたしは、あなたのことを知りたいの」

「退屈な話です」

「でも、聞かせてほしい」

「それでは、僕が望む国の話をしましょう」


 そして、彼は語った。

 不思議な物語を。多くの人が平等で平和に暮らす豊かで美しい世界のことを。

 彼の物語は郷愁にみち、唐突に終わった。


「どうしたの?」

「家族ということで思い出しました。国ではなく、いつかお聞かせしましょう」


 彼はほほ笑みながら、隣りにすわっている。


 ただ、その場所は居心地のよいものではない。


 これ珠花じゅふぁのイタズラで、彼女は腰を下ろす床を居心地悪くすることで、男たちを寝台に誘う口実に使うのだと前に語っていた。


 わざと表面の生地をダブダブした布でおおった、大きめの座布団ざぶとんが置いてある。だから、普通にすわっていても、生地がすべって腰が定まりにくい。


『だって、麻莉』と、彼女は言ったものだ。

『男って、案外とだらしがなくて臆病な生き物なのよ。だからね、きっかけを作ってやらなきゃいけないの』

『それが、どうダブダブの布と繋がるの』

『すわり心地の悪いザブトンでは長居はできないでしょ。それで、もじもじしている男に謝るのよ。仕立て屋が間違えて、寸法より絹布が多くしたからって。でね、居心地のいい寝台で、お話しましょうって誘うの』


 それを聞いて笑ったものだ。


 絹布は彼女の意図とおりに動きまわり、彼が楽器を鳴らすたびに、少しずつ身体が動き、リュウセイに、そっと触れたり離れたりしていた。


(つづく)

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