男を知らない女がこれから蕾を咲かせようと
「黄砂は長くは続きません。心配しなくていい」
リュウセイの声はどこか面白がっているようだった。そして、わたしときたら、さらに愚かしい質問をしてしまった。
「あの、
彼は小首を傾げ、しばらく無言でいた。それから、ふっと鼻で笑った。
なんて質問をしたのだろう。普段なら言わないのに、なぜ、してしまうの?
出口がない。わたしの感情にはどこにも出口がなくて、ふつふつ、ふつふつ、身体の奥で沸き立つだけ。
「女性と一夜を共にするって意味かな。そういう依頼に逆らうことなどできないので」
「逆らったらどうなるの」
「美しい女性たちに、どうして逆らいたいのかな」
彼の口からでた言葉に動揺した。知ってはいたが、そう言われるまで、真実に耳を塞いでいたのだ。
わたしは本当に世間知らずのバカだ。夢見る王子さまを彼に重ねている。
「ごめんなさい」
「あやまる必要はありません」と、彼は口もとをあげ笑い顔を浮かべた。「いや、すまない。からかったんです。僕は演奏しかしません。こう言ったほうがよかったですね」
「あ、あの」
「あなたも僕が聞いていた噂とはちがいますね。感情を表に出さない冷たい王女だと。だから、もっと大人だと思っておりました」
彼の言葉に傷つく。
そんなわたしの動揺を無視して、彼は月琴を細長い指でなぞる。
この指がわたしの腕を掴み、ここまで連れてきた。
腕から広い肩、鎖骨、首、首筋、そこを飾る黒の細い鎖。その下には彼の厚い胸があり、黄砂に汚れた上着が包んでいる。
魔法にかかったかのように、目を外すことができない。月琴を調律する彼の、その切れ長の美しく真剣な顔を見つめる。
「どうか、そんな顔をしないでください」
「あ、あの、すみません。
ああ、恥ずかしい。大人の女性になりたい。
精一杯、大人の女性に、それも洗練された母がそうだったような。
城に飾られた権威に満ちた母の肖像画。多くの人が賞賛する素晴らしい母。その子として劣等感しか与えてくれなかった、その母になりたいと思った。
「ご、ごめんなさい」
「困ったな」と言ったあとで無表情になった。
「あなたのような身分で、謝罪など必要ないんだが……。あなたは、とてもかわいいですよ」
え?
聞き間違い?
彼は月琴を奏ではじめた。わたしのためか自分のためか、数曲を演奏した。それは美しくも、せつない曲で、わたしの心は泡立つばかりだ。
曲に身をゆだねていると、窓に明るさが戻り太陽が見えはじめた。唐突にはじまった黄砂は、唐突に通り過ぎたようだ。
「黄砂に時間を取られました」と、彼は月琴を片付けた。
「お屋敷へ行くための時間を失ったようです。ここでは黄砂はすべての言い訳になります」
「では、帰るの、……ですか?」
「今日は、ある侯の自宅で園遊会の予約がありました。それを強引に遅らせたのですが、これ以上は無理でしょう。李家には、次の機会にとお伝えください」
そうして、わたしたちは別れたのだ。
わたしの心を
黄砂は去り、街に喧騒が戻る。
馬は消えていた。無事に厩舎に戻っていればいいけど。わたしは
これまで、一人で何かを決断したり、まして一人で歩くことなどなかったから……、だから、珠花の屋敷に到着して、門番が怪訝な顔をする理由がわからなかった。
「ランワン国王女です」と、告げると、門番は呆れたような表情を浮かべた。
それから、わたしの姿をてっぺんから爪先までジロジロ眺めまわした。すごく不愉快で、バカにされた気分になったけど、でも彼を責めることはできないと思う。
黄砂で
おそらく、この時、珠花が馬車で出てこなければ、門前払いをされたかもしれない。
「麻莉じゃないの。どうしたの」と、珠花が馬車の
「珠花」
珠花が降りてきた。門番が驚いた顔で硬直している。その表情には、まさか、本当に王女が、こんな姿でと物語っており、平伏せんばかりに腰を曲げていた。
「どうしたの、麻莉」
「珠花」
「ええ。そうよ。わたしの名前は
彼女はつきあった男たちの名前を次々と言った。
「珠花、珠花」
「いったい、どうしたの。その顔、涙の跡に砂がはりついて、恐ろしい顔になっているわよ。
頬にふれると、ジャリジャリした砂が肌を痛める。
「わたし、泣いてるの?」
「ええ、控えめに言っても、そう見える」
「控えめじゃなければ」
「砂漠で号泣して砂を大量にぶちかましたって顔かしら。それって、新しい美容術なの?」
乾いた声で笑っていた。
笑ったり泣いたり、感情の抑制ができない。そんなわたしを彼女は屋敷に招き入れ、嬉々として湯のはった湯殿に入れる。
珠花の屋敷には熱水泉による湧き水があり、庶民には味わえない贅沢な風呂があった。
「まあ、ひどい砂。まさか、黄砂のときに外にいたんじゃないわよね」
「小屋にいたわ」
彼女はうれしそうにわたしの身体を洗う。かたわらで侍女が身体拭きの布を持って控えている。
「さあ、わたしに話しなさい」
「わたしは醜いわ、
「まあ、いつから? 醜いなんて、どうして、そんな子になったの。このシルクのような美しい亜麻色の髪。だめじゃない、砂でこんなに痛めつけては」
「ちっとも美しくない。男たちがわたしに近づくのは、髪でも顔でもない。ただ、わたしが王の娘だからよ。そうでなければ、誰もわたしなど気にもとめない」
おおげさに珠花がため息をついた。そして、わたしの身体を湯で洗い流すと、背後に控える侍女のハオランに指示した。
「そこの大鏡をもってきて、湯殿の向こう側に」
「こちらで、よろしいでしょうか。お嬢さま」
「そう、ありがとう、ハオラン。ねえ、ハオラン、どう思う、この肌」
「わたくしのような者が申し上げてよろしければ、とてもキメの細かな、羨ましいような光沢のあるお肌かと」
ハオランが厳粛に答える。
「そうでしょ。ほら、この肌、手に吸い付くみたいにきめ細かくて、陶磁器のようにすべすべなのよ。この肌のためだけで、男たちが列をなすわよね」
ハオランが大鏡の向こう側で、真面目にうなずく。
「さあ、立って」
「珠花」
「いいから、立ちなさい」
立ち上がると、全身が大鏡に映った。
何も身につけない素肌のわたし。そういえば、自分の裸体を見たことがなかった。
「ご覧なさい。ほら、まず髪からよ。薄い茶色がまじった亜麻色の髪。この豊かな髪をもつためなら、多くの女たちが魂を売るわ。水に濡れて髪がくるくると美しい光沢できらめいている。まるで天女よ。その顔は、大人と子どもの中間で、男を知らない女がこれから蕾を咲かせようと頬を染めている」
そう言って、珠花はわたしの胸にそっと触れた。
「やわらかくて、弾力があって。ハオラン、触れてごらん」と、ささやいた。
彼女は命じられるままに、「失礼いたします」と、わたしの肌に触れる。それは奇妙に優しくぞくっとする感触で。
「どう?」
「おっしゃる通りでございます。珠花お嬢さまの熟れた肌とはまた別の瑞々しさがございます」と、彼女は控えた。
「まあ、ハオラン、最後の言葉は必要だった?」
珠花は背後にまわり、わたしの腰を抱いた。
「
「麻莉。ほら、この線、胸から腰に向かっての完璧で美しい曲線。そして……」と、彼女はゆっくりと指を這わせる。
「ああ、珠花」
「肌が熱いわ、あっ、これは……。背中に紫のアザが」
「なんのこと?」
「熱を持っている。紫龍のアザ、まさか、あなたは……、麻莉王女。いえ、やめとくわ。さあ、自分の肌に触れたことがないのね。これほど完璧な美しさを、あなたは
わたしは酔ったように、彼女の指先を見ていた。
(つづく)
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