黄砂の日に、あなたの腕のなかに
行ってしまう!
「あ、あの……」
彼がふり返った。
きっと、わたしは全身が赤くなっている。……きっとそう。真っ赤になっているにちがいない。自分の感情を知られるのは恥ずかしいけど、どうしようもない。
「あの、どこで武術を。その、あなたのようなお仕事の方が」
言ってから失敗したと思った。『あなたのような』なんて、ひどい言葉だ。彼を前にすると動揺して冷静でいられない。思ってもみない言葉が飛び出す。心が迷子になってしまう。
彼はわたしの失礼な問いを、さりげなく部分的に無視した。
「
「あ、あの、あなたは?」
「ある屋敷に呼ばれたので、向かう途中です」
リュウセイは
「もしかして、
わあ、またまた失敗。
バカ、バカ、バカ!
なぜ、こうもバカなことばかり言ってしまうの。
わたしの中に芽生えた新しく馴染みのない感情。たぶん自ら怪物に育ててしまったのだ。その怪物は、わたしに理性を失わせる。
彼は歩いていた。
「ご存知のお屋敷ですか」
「あなたを呼ぶと聞いたから」
「それで、逃げたのですね」と、彼はほほ笑んだ。
これは、きっと冗談を言っているはずだ。けど、気のきいた返答などできない。相手がリュウセイでなければ、たぶん「あなたより先に」とか、なんとか言えたかもしれない……。
「いえ、それは」
「麻莉王女さま」と、彼がわたしの名前を呼んだ。
「わたしを覚えてくださったの」
「二度、お会いしましたから。最初は公道で、次は
正確には四度目だけど、王宮の階段を駆け下りる彼を見て息が止まった。
「李家の別宅に行くのですね」
「そうです」
「わたしもです」
彼が笑った。それは、心からの自然で飾らない笑顔で、黙っていると冷たく見える美しい顔が、無防備になり人懐っこく変化する。
これは、本当に反則だ。なんて惹き込まれる笑顔だろう。
多くの女たちがこの顔を見るために……、金を支払うのだ。
「今日は風が強い、じきに砂嵐になりそうです」
「砂嵐ですか?」
「黄砂が吹きそうですね」
「わたしは、あの、まだ、都に来たばかりで、黄砂を知らないのです」
リュウセイが先を急ぎ大股で歩きはじめる。その後を馬を引いて追う。
彼は放浪楽士で、いわば下層民だ。金で買われる男だ。呪文のように心のなかで唱えてみる。
だから、こんなふうに後を追うのは間違っていると思う。たぶん、そう。
「あの、
「急ぎましょう」
風が強くなってきた。
朝のうちは晴天で美しい日だったが、今は周囲に霧がかかったようになっている。
黄砂まじりの風が吹いているせいだ。育った田舎では南の砂漠から飛んでくる砂塵はたまにあったが、黄砂の経験がない。
正面から近づいてきた男たちが、「ついてないな。黄砂が吹き荒れそうだ」と、すれ違いざまに言った。
彼はマントで口をおおい、わたしに手を差し出した。
「あ、あの」
「これは本格的な黄砂になりそうです。お手を。周囲が見えなくなる前に」
彼は逡巡するわたしの手首を強引につかんだ。指の感触をむき出しの肌に感じて身体が火照る。
すぐに黄砂に巻き込まれた。ゴーという音とともに周囲の景色が溶けていく。
リュウセイの黒い
息をすることさえ忘れた。声も出せない。
リュウセイの匂い、リュウセイの肌の熱。無意識に馬の手綱を放していた。
「走りますよ」と、彼の喉仏が目の前で動いた。
「袖で口を塞いでください。砂で喉をやられます」
言われた通りに口を塞いだ。
彼は左手でわたしの肩を抱いて走りだした。
チラッと後ろを振り返ると巨大な砂の集合体が津波のように襲ってくる。砂塵をともなった砂嵐だ。
すぐに景色はベージュ色に染まり、細かい砂の幕が張られ、すべては消えた。
黄色い幕は太陽光を遮り、暗闇に包み込む。
色彩豊かだった景色が黄色く反転した。と、すぐに真っ暗闇になる。
ザザザーザーという騒音が耳元で鳴っている。
音も視界も、すべて無になって、わたしは彼に包まれていた。
バタンという音がした。
「入って」
「ここは」
「さあ、黄砂が襲ってくる」
言われるまま小さな小屋に足を踏み入れた。
ここは人に使われたことがあるのだろうか。薄汚い小屋だった。
バタバタと吹き飛ばされそうな音がする。リュウセイが力づくでドアを閉めるといくぶん静かになった。
「勝手に入っていいのですか?」
「黄砂のときに遠慮は無用です。この小屋は誰も使ってないようですが、こういう時は自由にしていい」
わたしの身体を包む苞が消えた。ひとり取り残されたような不思議な感覚。身についた感情を隠す術をなんとか思い出そうとして、狭い小屋のなかを歩いた。
リュウセイがランプに火を灯した。暗い室内にオレンジ色の明かりが広がっていく。それから、彼は朽ちかけた椅子のホコリを払った。腕で確認するように押してから、わたしを見た。
「こちらをお使いください」と、椅子を示した。
歩きまわるのをやめて、椅子にすわったけど。でも、困った。どういう態度がいいの? こういう場合、笑ったらいい? 無関心をきめこむ? それとも、泣く?
ああ、もう、どうしたらいいのかって、どの家庭教師も教えてくれなかった。
「黄砂の音が怖いですか」
「い、いえ、そんなことは」
「先ほどから耳をふさいでますね」
え?
それは無意識だったが、自分の両手で耳と頬を抱えている。でも、耳を塞いでいるわけじゃない。ただ、落ち着かないのだ。
「黄砂は、しばらく吹き荒れます。外へは出られないでしょう。ここで待っていれば、そのうちに通りすぎます」
リュウセイはわたしから離れた窓際に腰を下ろすと、肩に背負った月琴を取り出して楽器を調律した。
普通の月琴よりも倍の弦が張ってあり、重なりあった音が美しい複雑な旋律を奏でた。
その音は、なんとも言えない癒しに満ちており、ザーザーと部屋に響く黄砂音が耳ざわりではなく伴奏になった。
なんという天賦の才能だろう。この人は天才だ。
心が静まっていく。わたしが、この場にいてもいいと安心する。その時、天上から甲高い悲しげな音が聞こえてきた。
トゥイ〜〜ン
トゥ、トゥイ〜〜ン
トゥイ〜〜ン
「あれは……」
「砂塵の竜が空を泳いでいるのですね。珍しいな。僕は二度目ですが、めったに聞ける声ではありません。だから、砂塵の竜のなき声は『運命の分かれ道』という伝承を聞いたことがあります」
リュウセイが弦を止めて言った。
「耳をすませて。本当に美しい鳴き声です。人にとって心地よい音です。規則的なものと不規則なものが調和した状態の音階で、自然界に存在する芸術かもしれない」
「はじめて聞きました」
「だが、もう行ってしまったようだ」
砂漠に住むという幻の竜。本当にいたんだ。顔を上げるとリュウセイがわたしを見ていた。
「あの、個人的なことを聞いても」
「なんでしょうか」
「あなたは別の世界から来たのですか?」
リュウセイは驚いたように眉をあげ、そして、形よく通った鼻にシワを寄せた。
「なぜ、ご存じなのですか」
「ある方から聞きました」
「僕のことを知りたいのですか?」
その言葉に顔が熱くなる。
ええ、そう、知りたい、知りたい、知りたいの。
「それは、気に触りますか?」と、小さな声でささやいた。
きっと小さすぎて聞こえなかっただろう。でも、彼は答えた。
「いいえ」
「わ、わたくしのことを、どう思います?」
「あなたのことを?」
「ええ」
「この国の王女さま。おそらく、この国ではもっとも位の高い女性かな」
そんなことを聞きたいわけではない。違う、違う、でも、なにも言えなかった。
顔を上げると、彼は窓の外を眺めていた。
それは、まるでわたしなど存在しないかのような態度だった。
彼がわたしに感心がないと思うだけで深く傷つく。この国だけでなく、多くの貴公子はみなわたしと結婚したがり、注意を引きたがっている。それは父の地位のためであって、わたしを愛しているためじゃない。
そして、素のわたしだったとき、多くの男たちの反応はリュウセイと同じなのだろう。
「あの……」と言った言葉は口のなかで消えた。
「あの……」
もう一度、同じ言葉を繰り返したとき、リュウセイが、いたわりを込めた声で呟いた。
(つづく)
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