彼の声、彼の唄
「……ああいう男」
厩舎近くで繋がれていた馬に乗る。どこでもいい、ここから逃げることができるなら、どこでもよかった。
──ああ、わたしはなんてバカなの!
美しい珠花、その他の女たちも。リュウセイと寝台にいる女たちを想像すると、恥ずかしくてたまらない。
彼にお金を払って会うなんて、そんな事できるはずがない。
──バカ、バカ、バカよ。わたしは……。しっかりしなさい。あなたは王女よ、麻莉!
街道を馬で走り、少しは冷静さを取り戻したとき、かなり遠くまで来ていた。
手綱を引くと、ほぼ同時に馬が暴れた。
田舎で扱いなれた
「どうどう」と声をかけたが、興奮するだけだった。
馬はさらに暴れ、ふいに激しく飛び跳ねた。
振り落とされる!
街の中心部から外れた人通りの少ない場所だ。ここで事故にあえば、助けてくれる者もいないだろう。
「お願い、静まって。お願い」
必死に叫ぶ。冷や汗が、どっと出る。
と、いきなり馬が跳ねるのをやめた。
鼻息は荒く、まだ興奮しているけど。
「大丈夫がや?」
男のダミ声だ。馬の鼻先で口輪を押さえている男に気づいた。
「あ、ありがとうございます」
「ねえちゃん、あんた、無茶だよ。こいつは女の乗り物じゃないぜ」
「ええ、ええ」
大人しくなった馬の首筋を撫でて、背筋を伸ばし、もう一度「ありがとう」と礼を言った。
そのとき、別の危険を感じた。男の服装は貧しく薄汚れている。口輪を持つ腕には目立つ傷痕がいくつもあって、肌が赤黒く毛深かった。
「おいおい、ねえちゃん、それだけかや」
「……」
「ぐぅえへへへ」
いやな感じで笑う声が聞こえる。背後に二人、似たような男たちが、だらしなく立っていた。
まわりを見渡す。
建物はうす汚れ、ゴミが散乱して。いつの間にか治安の悪い場所に来てしまったようだ。都は王宮を出ると危険な場所があると聞いている。
考えてみれば、馬の興奮も不自然だった。まだ、足踏みしているが、その動きがぎこちない。
「ねえちゃん」と、男は下卑た笑いを顔に貼り付けたまま、馬の口輪を離さない。
「離してください」
「おや、助けた相手に、ひどい口の聞き方や」
「お礼申しあげます。もう、大丈夫ですから」
「へええ、礼儀知らずなやっちゃな」
これは、ただで帰してくれそうにない。
男は歯の抜けた口を大きく開けて、ギャハハと声をあげた。地獄の底から出すようなぶきみな笑い声。残りのふたりもニヤニヤしている。
「ええかい。あんたは確かに金持ちのねえちゃんだろうが。ひとりでこんな場所に来ちゃいけんかったんや」
この男たちは、もしかしたら計画的に馬を暴れさせたのかもしれない。
罠をはり、カモを待っていた。その罠に自らハマった愚か者が、たぶん、わたしなのだろう。
「馬に何かしましたね」
「ほお、今度は脅しや。あんたみたいな上物は、めったに会えねぇ。奴隷として売りとばしゃあ、大きな金が動くぜ。この馬もええし。さあ、おとなしく降りな。ケガするぜ」
おとなしく馬から降りた。
「そうそう、素直でいい子だ。もっと騒ぐと思ったがな」
「あなたは誰を相手にしているのか、わかっていません」
「口だけは達者や」
わたしは王女だ。
幼いころから厳しい訓練と教育を受けてきた。
護身術もそのひとつだ。王女としての立場は危険を伴う。用心のためだったが、これまで必要としたことはない。
実戦で使えるだろうか。背中を冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
「もう一度、言います。手を引きなさい」
「ほおれ、このおじさんを楽しませてくれるがや」
くさい息と欲望に理性を失った男がのしかかった瞬間、その場に身体を沈め、頭部で相手の
ひるんだ瞬間を見て、掴んだ砂を顔に向けて投げつけた。
最初の男が目を押さえて、ギャッともグッとも、奇妙な悲鳴を発した。
腰から短刀を取り出した。
身体から熱がほとばしる。丹田の奥で息を吸う。
「警告はしました」
「い、いてえ。いてえ、このメス、なにしやがる」
「たく、女ひとりに、何やってんだ」
「ああ、だな」
別の男に腕をつかまれた。
その時、背後からパンパンパンと拍手する音が聞こえた。
新たな敵?
びくっとして、振り返る。
リュウセイ!
彼が立っていた。だから、あのリュウセイが。
あ、あの、あの人が、あの人が目の前にいて。
目を閉じて、また、開けた。確かに、そこにいる。夢じゃない。
しかし、彼は楽士だ。戦えるはずがない。
「逃げて!」と、思わず叫んだ。
その言葉が合図のように、彼が上半身を低く地面に沈め、その長い足を地に這わせる。
いや、沈めたと思ったとき、なぜか、つかまれていた二の腕が軽くなり、次の瞬間、くるりと回転させられて、リュウセイの背後に回っていた。
たたらを踏むわたしを、彼が優しく抱きとめた。
この瞬間だけで死ねる。こんな場合なのに、わたしは思わず、そう思っていた。
──なんて、美しい瞳なの。
今、そんなことを考えている場合じゃないけど、心臓がバクバクして、腰が抜けた。
野盗たちも驚いていた。
リュウセイは着ていた黒い
誰もが、天を舞う黒苞に目を奪われたとき、彼は地面に落ちていた枝を拾って、男たちの胴を瞬時に突いた。
その時、不思議なことが起った。
木の枝は細く、強力な武器には見えない。
しかし、野盗たちは、「ウッ」と呻きながら、その場に倒れこんだ。
空から、ゆっくり落ちてきた
彼が振り向いた。
「立てますか」
「は、はい」
「では、立ちなさい」
リュウセイは野盗たちを振り返ると、「馬に何をした」と、問い詰めた。
「お、俺らは。俺らは」
「ハ、ハリ、針だ。針を馬のケツに。た、助けて、助けてくれ。た、頼む、許してくれ」
野盗たちは怯えた表情で、その場に腰を抜かした姿勢のまま、四つん這いで逃げていく。
彼らが去ったのを確認して息をついた。
荒くなった息を整え、馬の身体を確認すると、
はじめて足が震えた……。
「お怪我は?」と、低音の美しい声が聞く。
「い、いえ。なにも、あ、ありがとうございます」
全身を黒い服に身を包んだ魅惑的なリュウセイ。
──どうか、近づかないで。だって、胸の鼓動が聞こえてしまう。
いえ、この胸の鼓動は暴漢に襲われたためだ。いいわ、言い訳はできたから。だから、近づいても大丈夫。
でも、わたしのことなど、まるで眼中にないかのように、彼は一礼して、そのまま去って行く。
「お待ちください」
(つづく)
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