そのためにいる、ああいう男



 翌々日、ひそかに王宮を抜け出し、馬で珠花じゅふぁの屋敷へ向かった。王宮から十五通りほど先にある瀟洒な屋敷だ。


 彼女は、親が住む本宅とは別の屋敷に住んでいる。父親が所有するこじんまりとした別宅で、正門には門番が立つ。


 わたしが到着したとき、公道に面した二階の窓が開いており、珠花じゅふぁ軒先のきさきに腰かけていた。彼女らしい奔放さで外を眺めている。

 あの顔を見るとほっとする。


 わたしに気づいた珠花じゅふぁが手を振って叫んだ。


「おはよう、麻莉」


 もう、昼すぎと思ったが、言葉にはしなかった。

 それに大声は品がないと訓連を受けてきたわたしは、ほほ笑むことしかできない。


 彼女は半分眠そうな目を横にずらし、それから、「クゥ〜ン」と寝言のような鳴き声をあげた。太陽のきらめきのなか、明るく顔が輝いている。


 門番が頭を下げた。


「ちょっと待っていてね」


 彼女が叫ぶのと、使用人頭が屋敷の扉を開くのは、ほぼ同時だった。従者のひとりが走りでて、馬の手綱を受け取る。

 二階から、かすかに男の声が漏れてきた。


「しばらく、お待ちくださいませ。珠花じゅふぁさまが……」


 言葉が終わらないうちに、漢服を半分身につけた男が階段をかけ降りてきた。下穿したばきだけはき、長羽織と苞(上着)を手に抱えている。


「おや、これは、これは……、幻の姫君だ。わたしは床園ちゅあんえんと申します。お見知りおきを」

「ごきげんよう」

「わたしの花束は届きましたか」


 その剽軽な言い方には、思わずほほ笑みたくなるユーモアがあった。珠花の選ぶ相手だから、たぶん一筋縄ではいかない男なのだろう。


「もしかして、わたくしへの求婚者の方?」

うたげでお会いしたことを、お忘れなんですか。おお、これは悲劇だ」

床園ちゅあんえんたら、わたしの親友を口説かないでよ」と、背後から珠花が怒鳴った。「麻莉が会った相手をすべて覚えてないからって、適当なことを言っているわね」

「麗しの珠花じゅふぁさま。なぜ、かような真実を」

「真実こその嘘。嘘こその真実。さあ、帰って」

「冷たい。そんな、あなたが愛おしい」

床園ちゅあんえん。その言葉で姫との婚礼は消えたわね」

「いやいや、僕は諦めませんよ」


 そう言うと、床園ちゅあんえんは苞を肩にかけ、深く丁寧に一礼した。この状況を、どう扱っていいのか戸惑う。


 都というのは、確かに珠花じゅふぁの言うとおり狼ばかりかもしれない。


「さあ、麻莉、上がって。そして、わたしを楽しませて。都に突如としてあらわれた華麗な花を一人占めできるなんて、楽しいことよ」

珠花じゅふぁ

「はいはい、わたしは珠花よ。他の名前はいらないわ」

「珠花」


 ふいに涙が溢れた。わたしは泣きながら階段をあがって部屋に入った。こんなふうに感情がはげしく動揺する自分に驚く。いったい、わたしは、どうしてしまったのだろう。


 不安定に心がゆれる。なにを見ても泣きたくなる。


「どうしたの、麻莉」

「わたし、たぶん、変になったの」

「あら、いつも変じゃない」

「そうじゃなくて。ある人のことを考えると、感情が高ぶって自分でも持て余して。涙もろくないのに、すぐ涙があふれて。珠花じゅふぁ珠花じゅふぁ

「その、相手って、女、魔物? 天女、それとも、まさか獣人じゃないわよね」

「男よ」

「あら、安心したわ」

「珠花」

「麻莉、お相手は誰?」


 名前を口にできない。


「相手を言えないの? 当ててあげる。王寧寧わんにーにー


 首をふった。


「もったいない。じゃあ、どの貴公子」

「あの、あの、歌っていた……」


 それを聞くと、珠花は目を見開いた。それから、首を振った。その意味はわかる。わかるからこそ、悲しくなる。


 肩をすくめ、改めて驚いた表情を浮かべ、わたしの肩を抱いた。

 寝乱れた寝台まで歩くと、端っこに腰をおろした。並んですわっていると、子ども時代を思い出す。


「夜は長かったし、歌っていた人は多いわ。男も、女も、あやかしも、酔っ払いも」

「珠花」

「でも、たぶん、あの男ね」

「わかるの?」

「あなたが大広間に来て、最初に歌った楽士。あの声に酔いしれたわ。魔法のような声だったけど、まさか」


 口もとを手で覆ってうなずいた。


「おお、麻莉、なんという悲劇。世間知らずの処女が遊び慣れた楽士に恋なんて。正気じゃないと思うけど」

「そうよね。わかっているわ。でも自分でもどうしようもない」


 また、涙があふれてくる。


「どうしたいの、麻莉」

「わからないの、どうしていいか、わからない。ただ、彼に……」

「彼に?」


 涙が雨のように流れて止められない。珠花じゅふぁがハンカチでわたしの顔を拭いた。


「さあ、鼻をかみなさい」


 珠花の屋敷には男たちがひっきりなしに来る。彼女なら簡単にリュウセイの心をつかむことができるだろう。


 わたしは経験不足で幼い。ずっと田舎に住み、規則正しい生活をして、使用人以外に接する者はいなかった。

 珠花のような手管を弄したら、彼はわたしのものになるだろうか?


 いえ、そんなことは無理。


 ああ、どうしよう。どうしたらいいのだろう。


「どうしたら、いいの……」

「いいわ、わたしの麻莉。わたしが助けてあげるから」

「どうやって」

「あなたはね。幻影を見ているのよ。その美しい幻影も、相手は普通の男に過ぎないってわかれば冷めるわ。だから教えてあげる。バカなことをしないうちにね。待ってらっしゃい」


 彼女は使用人頭の男を呼んで耳打ちしてから、金貨袋三個を手渡した。


「なにをしたの」

「お金で彼を呼んだのよ。あの歌っていた男よね。人気がありそうだから、倍の値段を払っても、首に縄をつけて呼んでらっしゃいと伝えたから。大丈夫よ、我が家の使用人は有能なの。その代わり、わたしも使わせてもらうわね」と、彼女は言った。

「お金を?」

「まあ、麻莉。あの男は音曲職人閣にいて、たぶん、最高級よね。わたしは遠くから背中しか見えなかったけど、声は最高だった。だから一回の貸し出しに五百銀貨は必要よ。一日ともなれば、それは多額の金が必要かも。高級品なのよ」

「五百銀貨って、どれくらいの価値あるの」


 珠花じゅふぁは声をだして笑った。


「まあ、思った以上に、世間知らずね」


 身体が震え、寝台から逃げだしたくなる。


「麻莉。例えばね、五百銀貨は庶民レベルの七日分の生活費ってところ」

「わからないわ」

「いいのよ、わからなくて。あなたは自分で、お金を使う生活を今もこれからもしないでしょうから」

「彼を呼ぶの」

「そうよ」


 ここに? 彼が来る。この乱れた寝台の珠花の部屋に。


「いえ、ダメよ、珠花。そんな」

「麻莉、本当にかわいいわ。さあ、そういう事は早めにケリをつけて、ふさわしい人と結婚しなさい。でも、結婚前のお遊びは大事よ。あなたの立場ではなかなか難しいことですもの」


 珠花の声が聞こえなくなった。彼が来る。それも、ここに。あの、黒髪の美しい声の、精悍でいて繊細な男が。


 では、この場にいることなどできない。でも、逃げることも無理。

 使う?

 彼を使うって、どういう意味。ああ、文字通りの意味だろう。


「ただね、彼を独り占めはだめよ」

「珠花。使うって、彼はお金で、あなたと、その、あの、身体を使って過ごすってこと」

「そうよ。ああいう男はそのためにいるの」


 現実は、たまに知りたくもない事実を教えてくれる。



(つづく)

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