そのためにいる、ああいう男
翌々日、ひそかに王宮を抜け出し、馬で
彼女は、親が住む本宅とは別の屋敷に住んでいる。父親が所有するこじんまりとした別宅で、正門には門番が立つ。
わたしが到着したとき、公道に面した二階の窓が開いており、
あの顔を見るとほっとする。
わたしに気づいた
「おはよう、麻莉」
もう、昼すぎと思ったが、言葉にはしなかった。
それに大声は品がないと訓連を受けてきたわたしは、ほほ笑むことしかできない。
彼女は半分眠そうな目を横にずらし、それから、「クゥ〜ン」と寝言のような鳴き声をあげた。太陽のきらめきのなか、明るく顔が輝いている。
門番が頭を下げた。
「ちょっと待っていてね」
彼女が叫ぶのと、使用人頭が屋敷の扉を開くのは、ほぼ同時だった。従者のひとりが走りでて、馬の手綱を受け取る。
二階から、かすかに男の声が漏れてきた。
「しばらく、お待ちくださいませ。
言葉が終わらないうちに、漢服を半分身につけた男が階段をかけ降りてきた。
「おや、これは、これは……、幻の姫君だ。わたしは
「ごきげんよう」
「わたしの花束は届きましたか」
その剽軽な言い方には、思わずほほ笑みたくなるユーモアがあった。珠花の選ぶ相手だから、たぶん一筋縄ではいかない男なのだろう。
「もしかして、わたくしへの求婚者の方?」
「
「
「麗しの
「真実こその嘘。嘘こその真実。さあ、帰って」
「冷たい。そんな、あなたが愛おしい」
「
「いやいや、僕は諦めませんよ」
そう言うと、
都というのは、確かに
「さあ、麻莉、上がって。そして、わたしを楽しませて。都に突如としてあらわれた華麗な花を一人占めできるなんて、楽しいことよ」
「
「はいはい、わたしは珠花よ。他の名前はいらないわ」
「珠花」
ふいに涙が溢れた。わたしは泣きながら階段をあがって部屋に入った。こんなふうに感情がはげしく動揺する自分に驚く。いったい、わたしは、どうしてしまったのだろう。
不安定に心がゆれる。なにを見ても泣きたくなる。
「どうしたの、麻莉」
「わたし、たぶん、変になったの」
「あら、いつも変じゃない」
「そうじゃなくて。ある人のことを考えると、感情が高ぶって自分でも持て余して。涙もろくないのに、すぐ涙があふれて。
「その、相手って、女、魔物? 天女、それとも、まさか獣人じゃないわよね」
「男よ」
「あら、安心したわ」
「珠花」
「麻莉、お相手は誰?」
名前を口にできない。
「相手を言えないの? 当ててあげる。
首をふった。
「もったいない。じゃあ、どの貴公子」
「あの、あの、歌っていた……」
それを聞くと、珠花は目を見開いた。それから、首を振った。その意味はわかる。わかるからこそ、悲しくなる。
肩をすくめ、改めて驚いた表情を浮かべ、わたしの肩を抱いた。
寝乱れた寝台まで歩くと、端っこに腰をおろした。並んですわっていると、子ども時代を思い出す。
「夜は長かったし、歌っていた人は多いわ。男も、女も、あやかしも、酔っ払いも」
「珠花」
「でも、たぶん、あの男ね」
「わかるの?」
「あなたが大広間に来て、最初に歌った楽士。あの声に酔いしれたわ。魔法のような声だったけど、まさか」
口もとを手で覆ってうなずいた。
「おお、麻莉、なんという悲劇。世間知らずの処女が遊び慣れた楽士に恋なんて。正気じゃないと思うけど」
「そうよね。わかっているわ。でも自分でもどうしようもない」
また、涙があふれてくる。
「どうしたいの、麻莉」
「わからないの、どうしていいか、わからない。ただ、彼に……」
「彼に?」
涙が雨のように流れて止められない。
「さあ、鼻をかみなさい」
珠花の屋敷には男たちがひっきりなしに来る。彼女なら簡単にリュウセイの心をつかむことができるだろう。
わたしは経験不足で幼い。ずっと田舎に住み、規則正しい生活をして、使用人以外に接する者はいなかった。
珠花のような手管を弄したら、彼はわたしのものになるだろうか?
いえ、そんなことは無理。
ああ、どうしよう。どうしたらいいのだろう。
「どうしたら、いいの……」
「いいわ、わたしの麻莉。わたしが助けてあげるから」
「どうやって」
「あなたはね。幻影を見ているのよ。その美しい幻影も、相手は普通の男に過ぎないってわかれば冷めるわ。だから教えてあげる。バカなことをしないうちにね。待ってらっしゃい」
彼女は使用人頭の男を呼んで耳打ちしてから、金貨袋三個を手渡した。
「なにをしたの」
「お金で彼を呼んだのよ。あの歌っていた男よね。人気がありそうだから、倍の値段を払っても、首に縄をつけて呼んでらっしゃいと伝えたから。大丈夫よ、我が家の使用人は有能なの。その代わり、わたしも使わせてもらうわね」と、彼女は言った。
「お金を?」
「まあ、麻莉。あの男は音曲職人閣にいて、たぶん、最高級よね。わたしは遠くから背中しか見えなかったけど、声は最高だった。だから一回の貸し出しに五百銀貨は必要よ。一日ともなれば、それは多額の金が必要かも。高級品なのよ」
「五百銀貨って、どれくらいの価値あるの」
「まあ、思った以上に、世間知らずね」
身体が震え、寝台から逃げだしたくなる。
「麻莉。例えばね、五百銀貨は庶民レベルの七日分の生活費ってところ」
「わからないわ」
「いいのよ、わからなくて。あなたは自分で、お金を使う生活を今もこれからもしないでしょうから」
「彼を呼ぶの」
「そうよ」
ここに? 彼が来る。この乱れた寝台の珠花の部屋に。
「いえ、ダメよ、珠花。そんな」
「麻莉、本当にかわいいわ。さあ、そういう事は早めにケリをつけて、ふさわしい人と結婚しなさい。でも、結婚前のお遊びは大事よ。あなたの立場ではなかなか難しいことですもの」
珠花の声が聞こえなくなった。彼が来る。それも、ここに。あの、黒髪の美しい声の、精悍でいて繊細な男が。
では、この場にいることなどできない。でも、逃げることも無理。
使う?
彼を使うって、どういう意味。ああ、文字通りの意味だろう。
「ただね、彼を独り占めはだめよ」
「珠花。使うって、彼はお金で、あなたと、その、あの、身体を使って過ごすってこと」
「そうよ。ああいう男はそのためにいるの」
現実は、たまに知りたくもない事実を教えてくれる。
(つづく)
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