第二章 反乱

燃える王宮



 あなたが、どれほど熱狂的な恋に溺れたとしても、それが簡単に打ち砕かれる瞬間がある。


 その渦中にいるとき、恋とか愛とか、どれほどもろいものかを知らない。


 おそらく、それに直面したとき、ほとんどの人は忘れる。

 恋をしたとか、情念に狂ったとか。

 そんなものが、いかに平和であったのか知ることがなければいいのに。


 わたしたちは、過去を誤訳することで未来を知っていると思い込む。

 ちょうど、この時のわたしのように。



 平凡に、ぜったいに変わらないと思う日々があった。

 その間に、朝廷で何があって、何がなかったか、わたしは知らなかった。



 ************



 その夜、眠れずにロウソクの灯りのもとで刺繍ししゅうをしていた。


 外から聞こえる耳慣れない喧騒に、わたしは、ただ「少し静かにできないの?」と問いただしただけ。


 廊下をバタバタと音を立て近づく内官ないかん

 驚いて、刺繍針で指先を突いてしまった。日頃、すり足で歩く彼らは物音ひとつ立てないよう訓練されている。


 非常事態が起きたのだと悟った。どんな状況かわからない。しかし、一方でこうなることを、うすうす感じていた気もする。


「おひいさま、お逃げください。すぐに」


 浜木が転ぶように入って叫んだ。


「なにが起きたのです」

「おっ、王宮が、王宮が攻撃されています」

「相手は」

「わかりません! 近衛兵が戦っています」


 とっさに白い下穿したばきと短い苞(上着)という身軽な服装に着替えた。髪をゆわえる。ちょっと見には少年のような格好だ。


「行くわ。弓を渡して」

「姫!」


 幼いころから、武術の訓練は受けている。


 開き戸が、バタンと音を立てて開いた。


「ご無礼を、お許しください!」


 数名の護衛が入って来た。血と汗にまみれ髪も乱れた護衛たち。矢が鎧に刺さり、血を流している者もいる。


「何事ですか?」

王公苑わんごんゆぇんによる謀反です。急ぎませんと、すぐにここも兵が」


 わたしが住む花御殿から、黄金御殿に住む父の居場所は遠い。

 世子である弟は東殿に住み、さらに遠い。

 どんな敵にしろ、まず、父の寝所を襲うはずだ。次に世子、最後がわたしだ。


「父は。父上は」

「王女さま、謀反人であるわん大尉は、精鋭部隊の数千を王宮の周囲に配備。それぞれの門は彼らの手で封鎖されました。宮中に配備された近衛兵は数百もいません。なかには早々に投降したものもおり、ここもすぐに」

「あなたは、王の護衛長ですね。なぜここにいるのですか」


 護衛長はヒゲに埋まった口をキュッと結んだ。


「逃げ延びてください。王さまから、『王女さまを守れ』との命を受けました」


 彼の目に光るものが見えた。

 父を捨て、この場に来たのは苦渋くじゅうの決断だったのだろう。


 わたしと浜木は、彼の先導のもと部屋から走り出た。

 女官たちは慌てふためき、悲鳴を上げている。


 建物外部にある回廊に出ると、父の住む黄金御殿が赤く燃える様子が見えた。

 火が放たれたのだ。


 つまり、すでに奉神門ほうしんもんは突破され、正殿から父に敵が迫っているということだ。


「父のもとへ行きます」

「王女さま! もう手遅れです。謀反人たちは、すぐにこちらに攻めて来ます。お命を無駄にするおつもりですか」


 護衛長の言葉に浜木を見た。


「浜木」

「お姫さま」

「女官たちとともに、逃げ延びなさい」

「お姫さまは」

「彼らの目的は王権の奪取だっしゅです。わたしとともにいては命が危ない」


 浜木は怯えた顔の宦官や女官に命じた。


「そなたたちは逃げなさい。女官らを殺すことはない」

「でも、浜木さま」

「行きなさい!」


 浜木は、わたしの腕を取ると、「姫」とほほ笑んだ。


「浜木、おまえも」

「あなたさまがご無事でなければ、浜木が生きる意味がありません」


 幼いころから、わたしに愛を注いでくれた浜木。

 もう、それ以上は言えなかった。


「では、ついてらっしゃい。生き延びましょう」

「はい、お姫さま」


 日頃は静かな後宮にドタドタと無粋な音がなり響く。


 回廊を走り、後宮の背後にある城壁に向かう。

 裏の第一門をくぐると、高い壁に囲まれた一本道の通路にでる。この先に裏門があるが、そこまでの道筋は長い。


 叫び声が近くから聞こた。

 と、槍を抱えた多くの兵士たちが迫ってきた。

 彼らの顔は狂気と興奮で高揚している。


 見上げると空が赤く染まっていた。

 これらこそが幻想かもしれない。


 心が深と冷めた。


 ここで命が尽きるのだろうか。


「姫、ここは抑えます。どうか、お逃げに」


 血で顔を染めた近衛兵の男が叫んでいる。


 ──どこへ? どこへ逃げる場所があるの? 敵兵は門を抑えたと言う。逃げ道などないのだ。あとは、終わる時間をどれだけ引き伸ばせるか。その時間を数えるしかない。せめて見苦しくない死を。


 男たちが戦っている。


「おひいさま!」


 浜木が必死の形相でわたしをみつめる。


「これまで、本当にありがとう。愛しているわ」

「お姫さま、お諦めになってはなりません」


 数十歩向こう側で男たちが戦っていた。剣が交わるキンキンという音。槍が生身の人の身体を突き抜く音。

 先ほど声をかけてきた若い男の胸ぐらにも何本も突き刺さっている。


 彼は、こちらを見た。

 その目に、もう光はない。ぐらりと身体が揺れ、地面に倒れる。なんと命とは、あっけなくはかないものだろう。


 あの男は、こんなわたしのために命を捨てたのか。


「姫さま、お逃げください」

「浜木!」

「さあ!」


 浜木に押され、わたしは前に走った。


 振り返ると、浜木が両手を広げ迫ってくる敵たちに向かっていく。

 その小さな腕で、わたしを育て、そして、必死に守ろうとしている。今も、昔も。


 浜木……。


 ──あなたは、襲いくる奴らにとって、ひ弱なだけなのに。なんて力強いのだろう。


「とまれぇええええ! 無礼ものたち!」


 浜木が叫んだ。

 その気迫ある声に敵がひるんだ。が、すぐに、槍をつきつける。


「浜木!」


 多くの槍に刺されても、浜木は倒れなかった。

 あの穏やかで、せっかちで、愛情深い浜木が振り向いた。


(逃げて、逃げてください)


 声もなく唇だけで、彼女は伝え、苦しげにほほ笑んだ。


 城壁に囲まれた狭い通路で、浜木は身体に刺さった槍を奪い、横に立て、その場をふさいだ。こちらを必死の目で見ている。


(浜木……)

(生きるのです、姫。生き延びて)


 わたしは背後を見ながら逃げた。

 浜木が、ほっとした表情を浮かべる。髪が乱れ、口もとから血を吹き出しても、奪った槍を持ったまま、立っている。


 浜木!


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る