第一部最終話:彼に会いたい




洋散子やんさんしさまは」という、浜木ばんむの目尻に涙が浮かんでいる。

「使用人として、このように申し上げることは大変に僭越せんえつでございますが。浜木は、お姫さまが可愛くてしかたがないのです。それだけは信じてくださいまし」

「もちろんよ、浜木」

「ですから、あえて申し上げます。洋散子やんさんしさまは恐ろしい方でもございました」と、彼女は言い放った。


 聞き間違いではないかと、思わず握っていた手に力を込めた。


洋散子やんさんしさまは愛を理解なさる方ではございませんでした。とても知的な方でございましたから。そうでございますね、まるで心を持たない神か魔物のような存在でございました」

「浜木」

「お姫さま、幸福は身分やお金で買えるものではないことを存じております。お姫さまが、いつも幸せで笑っていてくだされば、それだけが浜木の願いです」


 誰もが賞賛する美しく賢明で素晴らしい母だが、わたしは母の恐ろしい視線しか記憶にない。幼い頃、母がとても怖かったのだ。


「王さまは、洋散子やんさんしさまのことで苦しまれておりました」

「浜木。もし、そうなら恐ろしいことね」

「まあまあ、まあ、わたしは話しすぎたようにございますよ」


 となりで軽く腰をおろす人の良い浜木。なにを思いながら幼いわたしを育てたのだろうか。


 思い出すのは……、バタバタしながら常に見守ってくれた愛情深い彼女の姿。


「あなたさまはお優しく純粋な方でございます。お顔つきは洋散子やんさんしさまのようにお美しいですが、ご性格はまったく違います。お近くではべっておりましたから、よぉくわかりますよ」


 浜木は顔を真っ赤に染めて言いつのった。


 浜木、ごめんね。

 そして、本当にありがとう。恨みもせずに、自分の子に対するようにわたしを育ててくれて。


 彼女がいつもわたしの背後にいて、いつも穏やかな笑みを浮かべながら追いかけていた。

 幼いころからの優しい記憶。

 わたしの母のような浜木。

 あなたがいなければ、わたしは、きっと愛を知らなかっただろう。




 その夜、眠りが浅く何度も目覚め、そして、ひどい夢を見た。

 

 暑い夜だった。

 目覚めても息苦しく、もう眠れなかった。

 夜は恐ろしい。隠していたものがあらわになり、心に牙をむく。それは毒のように身体中をまわる。


 わたしの生活はとても規則正しいものだ。


 王宮にきて、その規則が多少は崩れた。それでも、一定の時間に起きて、分刻みですべきことが決まっているのは同じだ。


 朝起きて、顔を洗ってもらう。場にあった襦裙じゅくんを着せられる。


 それはみな侍女たちの仕事で、わたしは人形のように従う。


 食事をして勉学。あるいは、教養としての楽器の演奏。日によって武術訓練から舞踏があり、昼食の時間は五十分。それが終わると十分の休憩をいれて、昼からの課題。


 食事中は礼儀作法の講師がついて、背筋の伸ばし方や器の使い方、そして、話題の選び方などを教授してくれる。


 酒の飲み方教室が終わると、入浴。侍女が風呂に湯を入れ、わたしの身体をくまなく清める。


 夜着をつけてもらい、寝台にはいる。それが午後十時。朝六時にカーテンが開けられると、また、同じ繰り返し。


 心の底でわたしは自分の心のままに生きたいと、ずっと思ってきた。


 いつも辛かった。自由意志など必要とされなかった。


 王とはいえ、朝廷の言うがままの傀儡かいらいである父も同じだ。それで幸せなのだろうか?


 わたしは自分の境遇にはじめて疑問をもった。それは、身体が震えるほどの衝撃だった。

 このまま生きていくと思うと吐き気がする。喉まで胃の内容物が上がり、ウッと思った瞬間、寝台を汚していた。


 リュウセイ、彼に会いたい。


 わたしの自由の象徴である彼に。あの夢のような時間。彼なしで、わたしはこの先を生きていくことができるだろうか。


 夜が更けた。


 雨は止んでおり、雲が切れて、青白い大きな月が光を投げかけている。昨夜より、少し欠けているが満月に近い月だった。


 リュウセイ……。彼は珠花の寝台で眠っている? それとも、別のところにいるのか。


 遠くで雷がなっていた。

 ゴロゴロと身体の芯に届く音。


 もうすぐ嵐がやってくる。


(第一部完 第二部につづく)

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