彼のことしか考えられない
午後、王宮に戻った。
浜木が出て来た。いつものように騒々しい彼女。わたしは、その様子を牛車の窓越しに見ている。
御者が降りて
彼は礼儀から、わたしが降りるのを手助けする。
その手を無視して、牛車の足台を踏んだ。
石畳に雨音が、かすかに響いている。
雨はまだ降っていた。どしゃぶりではなく、細い糸を引くような雨。
ああ、この雨は止むことがない。
まるでわたしの心のよう。
浜木はうわの空のわたしに気づかない。
空中を歩くような浮遊感。
わたしは、二階の部屋に向かおうとした。
わたしは……。
わたしは……。
彼の言葉を思い出す。
『あなたに嘘はつきません』
彼のことしか考えられない。
なにを見ても、すべてがリュウセイへと戻っていく。昨夜のこと、あの優しさ。すべてを思い出して、心を抱きしめる。
わたしは発作的に笑っていた。
そう、あの珠花なのだ。きっと、彼を誘惑して自分のものにしようとするだろう。まるで目に見えるように、ふたりの姿が重なる。
リュウセイ、あの冷たい男はなんて言ったかしら?
部屋に戻る前に一階の書斎に向かい、父に面会を求めた。
「父上」
「麻莉、帰ってきたか。実は話があってね」
父は書きかけの書類を置くと、目配せして官僚たちを下がらせた。
「さあ、こちらにおいで」と、卓の前にある、絹の
「父上、わたし」
わたしの声はいつもより強く、だから、その時、もしかしたら、父は異様だと少しは感じたかもしれない。父は、そこで驚くべきだったけど、いつもの通り、まったく他人の感情を気にとめてなかった。
「お話があります」
「おや、なにかね。その前に大事なことが、後で聞くというのでは」
「いえ、父上、聞いてください」
「どうしたかな」
父は今度こそ本当に驚いていた。
「今、求婚いただいている方々と結婚ができないとお話したいのです」
「麻莉」
父が為政者の顔になった。
「誰とも結婚はできないと申しております」
父の表情は変わらない。そこには、父ではなく王がいた。
「いきなり都に来て、混乱しているのだろう。少し休んでから、もう一度、話し合おう」
「父上のお話はそのことでしたの」
「そうだ、麻莉」
「では、お断りしてください」
シワの寄った厳しい顔に、はじめて動揺の色が浮かんだ。が、すぐに、王の顔に戻った。
「麻莉。子どもじみたことを言っている場合ではない。そなたは何も知らないのだ。今のこの状況を。頭が痛い」
「父上、わたしは成人となる年齢です。ですから、大人として申しております。結婚はしません」
「浜木!」
父が大声を出した。隣の間に控えていたのだろう、浜木が慌てて書斎に入ってきた。
「陛下」
「麻莉が興奮しているようだ。部屋に返して、頭を冷やすように」
「父上!」
父は立ち上がると仕事用の卓に戻り、先ほどの官僚たちを呼ぶために鈴を鳴らした。
部屋に彼らが入って来た。しかたなく立ち上がり、拝礼した。
父はわたしを見ていなかった。
執務室を出た。浜木が背後からついてくる。きっと言いたいことがあるだろうけど、かたくなに無視した。
雨のせいか部屋が薄暗い。
窓際にすわり無意識に窓わくの
浜木が立っている。
「浜木……、父上との会話、聞こえていたの?」
「なにやら、王さまはご気分を害されたようでございますが」
「結婚をしないと言ったの」
「それは、まあ、あの、まあ、お姫さま。それはもう、ご結婚相手として上出来な方々ばかりでございましたよ。今時、いい方というだけで貴重品でございますとも。その上、見目もよろしい殿方もいらしたかと」
「浜木。じゃあ、あなたが結婚しなさい」
浜木はふくよかな頬に両手をあげて目を丸くした。
「わたしでは皆さまには失礼でございます。かの方々は子どもというか、孫に近いと申しましょうか」
「浜木、冗談よ」
窓の外ではまだ雨が降っている。いっこうに止む気配がなかった。
わたしが何も言わなければ、普段なら浜木は部屋を下がる。が、今日に限って、その場を動こうとしなかった。
静かに時間だけが過ぎていく。
「わたし……、たぶん恋をしたわ」
「どなたにでございますか」
「恋しちゃ、いけない相手よ」
浜木は賢明にもしばらく黙って、それから、珍しく言葉を選んだ。
「お姫さま、それは遅すぎましたね」
「そうね、遅いわ」
「お辛そうな、お顔をなさっていらっしゃいます。まあまあ、この浜木がハチミツ湯を作って差し上げましょう。きっと、そんな病はたちどころに」
「浜木。恋の病にハチミツ湯では意味がないわ」
浜木と話していると、すべてがバカみたいに思えてくる。自分の立場も、この抑えきれない感情も。
「浜木。わたしは恋をしたの。わかる?」
「お姫さま」と、彼女は口をすぼめた。
「浜木は、お母さまの
「そうね、浜木」
浜木がめずらしく自分から、わたしの手を取った。彼女の手はちいさく、ふくよかで、この手にどれだけ慰められてきただろう。
「わたしね、もう我慢することができそうもないの」
「お姫さま」
「辛いの、浜木。もし母上が生きてらしたら、どう言ったでしょうね」
「わたしは
そう、母は多くの人々の尊敬を受けていた。江湖の領民からも使用人からも。
わたしにはわからないけど、だって、ほとんど母の記憶はないのだ。肖像画でしか母を知らない。
それは実物より数倍も大きな肖像画で、威厳に満ち、どこまでも美しい天上の神のような姿。その肖像画を見るたびに、自分と比較して
「浜木。母が素晴らしいことはわかっているわ。それが、わたしには辛いの。わたしはぜったいに母上のようにはなれないもの」
「お姫さまは誤解をなさっているのですね」
「なにも誤解などしていないわ。完璧な母を持つ娘ってだけで」
「おや、おや、まあ、まあ」
浜木はわたしの乱れた前髪を背後に
わたしは彼女の手を止める。その手は幼い頃と同じように温かい。
「お姫さま、
「わたしは、その足もとにも及ばない」
「浜木は知っておりますよ。江湖での日々、本当にがんばっていらしたお姿を」
あれは、母に少しでも近づきたかったからだ。父や家庭講師たちの評価を得たかっただけで。今では、それも虚しい。
リュウセイ。
もう二度と会えないのだろうか。
わたしが動かない限り、それは悲しいくらい確かなことだ。
(つづく)
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