目を閉じて



「わたしは決まった生き方から自由になりたかったのです。でも、それができる立場ではなくて……、あなたのことを」


 言葉につまった。

 リュウセイは静かに聞いている。黙っていると、冷たい印象を与える容貌なのに、なぜか温かい気持ちになって、彼の包容力を感じる。


「わたしは自分の意思を持ってはいけないのです。それに、すぐに結婚しなければなりません」


 彼が、わたしを見ていた。

 その目は優しく、言葉を失ったわたしを、ただ、見つめていた。その視線だけで心臓は飛び出しそうになる。


 リュウセイ

 リュウセイ

 リュウセイ 


 この名前が、頭と身体を満たしていく。

 彼が答えを見つめている。

 わたしの答え……。


「あなたが好きです。あなたには、とても迷惑でしょうけど。これからの人生に思い出が欲しいのです」


 彼はわたしの右手を取った。その瞬間、わたしの右手は、わたしのものではなくなった。


「思い出」

「はい、短い時間でもいいのです。あなたと過ごした思い出が。あの、どう言っていいのか、わからないのですが」

「もう何も言わなくてもいい。理解できました」と、彼は言った。


 リュウセイはわたしの左手の人差し指を持ち、やさしく自身の唇に触れさせ、右手を背中へ添わせた。


「わたし、わたし、はじめてで」

「わかっています」


 それから、言葉はいらなかった。


 彼が灯りを消した。


 うす暗がりの寝室で、リュウセイが傍らにいる。

 恥ずかしいけれど、でも、これが最初で最後の夜。これから、この夢の時間を思い出として生きていけるだろう。すべてを記憶に刻んで、それで満足できるはず。


 天井まで届く窓とか、すだれが開いたままとか……、満月の明かりが少し開いた格子窓の間から、青白い光を投げかけていて。それはちょうど寝台の端まで届き、わたしたちを暗がりに隠している。そう、その、すべてを記憶に。


「目を閉じて」と、リュウセイがささやいた。


 彼の声が暗がりににじむ。


「……は、はい」


 とろけるような優しさで、まるで弦楽器を爪弾くように、彼がわたしの肌で繊細な音楽を奏でる。背中に燃えるような熱を感じた。


 羽毛が通り抜ける、触れるか触れないかの感覚……。

 焦らされる快感に耐えられなくなり身体が熱く火照る。わたしは彼が鳴らす高性能の楽器になっていく。


 唇から、思わず吐息がもれていた。


「あなたは美しい」


 彼のつぶやきが耳もとをかすめる。恥ずかしくて、身もだえしそうで、わたしの手が思わず彼の手を抑えた。それにも彼は逆らわない、優しくて、優しすぎるくらいに、焦らされて。手のかわりに彼の唇が肌に触れる。


「あ、あ、あ」

「大丈夫、僕にゆだねて……、麻莉」


 麻莉。

 ああ、麻莉。

 彼の唇がわたしの名前を形づくり、それは別の名前になる。たとえば、豊穣の女神。たとえば、官能に燃える処女の……。


 珠花が言っていた、最初なんて良くないものよ。

 そう、彼女はそう言って皮肉に笑った。

 でも、珠花。わたし、そう思わない。そうは思えない。

 この限りない優しさのなかで満たされ、いとも容易く恥じらいを放棄していく。


 ……

   ……


 その夜、ひさしぶりに、ぐっすりと眠ることができた。

 朝陽が邪魔をするまで。

 窓から差し込むまぶしい光のなかで、均整の取れた男の黒い影が見える。そこに、彼が立っている。


 はっと息をのむと、どこかに痛みを覚えた様子で彼が振り返った。


「目覚めたのですか」

「はい」


 彼は、ほほ笑んでいた。その顔に影がさして寂しげに見えるけど。

 いったい、なにを感じているのだろう。


 リュウセイは自分の気持ちを話さない。彼がなにを考え、なにを思っているのかわからない。生まれてはじめて、相手のためではなく、自分のために彼のことを知りたいと思った。


「どうかされましたか?」


 低く掠れた声を聞いて、無意識に「きゃ」っと叫んで敷布しきふのなかに潜った。


 軽やかな足音が聞こえる。寝台の端に彼が腰を下ろしたのだろう。


 彼は、そのまま静かにすわっている。と、苦しげに咳き込む声がした。敷布しきふから顔を出すと、すぐ近くにひじで支えた顔があった。


「いましたね」

「あ、あの、あの、咳が聞こえて」

「おや、そうでしたか」と、彼はとぼけた。「さあ、もう起きる時間です」

「起きたくないわ」

「ずいぶんと寝坊さんだ」


 彼の笑い声が好きだ。こんなふうに隣で笑う彼を眺めるって、なんて満たされた時間なのだろう。


「もう、朝ですよ」

「まだ、夜のように思えます」

「窓をご覧なさい。太陽が差して、庭師が働きはじめている」

「そうですか」


 わたしは余りに落胆した声をだしていて、その声に自分でも驚いた。


「では、もう一度、夜の世界を楽しみますか?」


 燃えるように身体が反応した。心臓がドキドキと鼓動を打つ。

 その時、開き戸が叩かれた。彼の顔を見た。


「無視したいですか?」

「ええ」

「では、無視しましょう」


 返事を待たずに開き戸が勝手に開いた。こんな行動をする人間はひとりしかいない。わたしは目を閉じて、開いた。

 珠花が寝台のリュウセイの反対側に飛び込んできた。


「誰を無視するって」

「珠花」


 彼女がさっと敷布しきふをめくった。


「きゃ、珠花」

「うふふ、可愛いい麻莉。また、綺麗になったわね。ほら、肌が光輝いている」


 彼女はリュウセイの存在を全く無視していて、それで申し訳なくて彼を見ると、彼も寝台に横になったまま楽しそうにわたしを見ていた。


「とても残念なお知らせがあるわ」

「なに、珠花」

「王宮から、お迎えがきている」


 全身に鳥肌がたった。


「迎えって」

「あなたの父親からよ。帰ってくるようにと。娘離れできない父親ね」

「あ、あの」

「麻莉。まだ眠っていると伝えたわ。準備に少しかかると。半刻ほどなら、時間を稼いであげる。その間に、別れの言葉を告げて下に降りていらっしゃい」

「珠花」

「後でね」


 珠花じゅふぁが出ていった。わたしとリュウセイを残して。わたしは、わたしは、彼と別れるなんて、もう、できない。


 でも、もうこれで終わりだ。


 絶望的な思いで寝台から起き上がり、それから襦裙じゅくんに着替えた。人に逆らわない従順な麻莉王女。あの女に戻る時間が来てしまった。


 だから襦裙じゅくんという衣装を着て、わたしの我慢だけの世界に戻る。


 リュウセイは寝台から起き上がり、窓の外を見ていた。


 雲が太陽を隠し、朝の輝かしい日差しを消していた。この地方特有の天気で、晴天の日でも急に雨が降ったりする。

 江湖の人々は、この通り雨を『竜の気まぐれ涙』と、よくいい交わしていた。


「大丈夫ですか?」と、彼が聞いた。

「だ、大丈夫です」

「いえ、その襦裙じゅくんのことです」


 普段、わたしは襦裙じゅくんを一人で着付けたことがない。まごまごしているわたしを見て、リュウセイが近くにきて帯を結んでくれた。

 なにか話さなきゃ。もうこれで終わりなら、何かを。この一秒一秒を大切にしなければ、ずっと後悔することになるだろう。


「あなたは、これからどうするの?」

「僕のことですか」

「もう、二度と会えないでしょうね」


 わたしは自分に意地悪だ。そして、彼に言って欲しい言葉があった。また、会えると、それが嘘であろうとも。愛しているという言葉を少しだけ期待していた。


 しかし、彼は……、

 彼は「そうですか」と、ほほ笑んだだけ。わたしは彼がこれまで付き合ってきた多くの貴婦人たちと同じ立場。どれほどの女たちが彼に恋い焦がれてきたのだろう。


「あなたを愛している人は多いのでしょうね」


 彼は首を傾け、それから、わたしを見つめた。


「あなたが愛した人はいるのですか?」

「いません」と、即答された。


 その声は冷たく、すべての女性を拒否しているように聞こえた。


「あなたは誤解なさっているようです。主に演奏することが僕の仕事でしたから」

「あの、でも、時に」

「僕は自分の意思に従ってきただけです」

「わたしは、あなたが、いえ、あの、あなたと別れるのが、あの」という、言葉の途中でやめた。


 いったいどういう言葉があるだろう。彼はわたしを愛していない。泣きたくなるほど、彼はわたしなど愛していない。


 だから、衣装箱に額をつけて頭を冷やした。

 彼が背後からわたしを抱いてくれた。まるで恋人のように、そっと壊れ物を扱うように。


 ──わたし、離れたくないのです……。


「あなたに嘘は言いません。聞いてください」

「いいのです。忘れてください。昨夜、それ以上のものをいただきました」


 彼は乾いた咳をすると、わたしを腕のなかでくるりと回して、そして、額に優しいキスをした。


「僕も、とても楽しかった」

「それは、嘘」

「嘘は言わないと言いましたよ。あなたは後悔しているのですか?」

「わたしはこれからも後悔しないと思います。一生、忘れないと思います。誰かと結婚しても、生涯、あなたのことを忘れません。人生で一度だけ、自分で決めて、成し遂げた。そのことを思って秘めていきます。わたしには大切なことでした」

「ありがとう」


 彼はそう言って、わたしを強く抱きしめた。まるで、愛しているかのように抱きしめてくれた。だから、身を切られるような思いに苛まれながら去ることができた。


 さようなら、リュウセイ。はじめて愛した人。

 わたしに、感情があると教えてくれた人

 さようなら、もう二度と会えない人。


 部屋を出て行くとき、彼はこちらを見なかった。ただ、外を眺めていた。

 雨がポツポツ降りはじめ、縁側に雨だれを垂らしていく。


 竜の気まぐれ涙……。


 彼も竜のように、気まぐれに泣いてくれるだろうか。

 開き戸を閉めようとして躊躇した。


「さようなら」

「麻莉」と、彼が言った。


 引き止めて、わたしを引き止めて、お願い、リュウセイ。わたしを欲しいと言って。そうすれば、すべてを捨てる。


「お元気で」と、彼はほほ笑んだ。


 それがどんな冷たい言葉か、彼は気づいていない。

 開き戸を閉めた。


 これで、王女の立場を耐えられると思っていた。

 わたしは、わたしは……。なんて子どもだったのだろう。耐えるしかないのに、耐えるしか。耐えられると、思っていたなんて。

  

(つづく)

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