命がけで救いに来た男
暗闇のなか、転びそうになりながら、無我夢中で走る。と、ふいに腕をつかまれ、「あっ!」と、声が出た。
大きな手で口をふさがれ、強引に引っ張られる。城壁の一部が崩れた狭い隙間に押し付けられた。
──お、恐ろしい。なにが起きたの?
「生きたければ、しゃがめ」と、男のしゃがれ声が聞こえた。
人を従わせるのに慣れた人の口調で、とっさに、その場に腰を下ろして小さくなる。
すぐ兵たちの足音と「ワアー」という雄叫びが聞こえた。
前を通りすぎる集団に、男が膝をついて大声を出した。
「
「わかった」
都督とは軍を統括する人の称号で、今は
思わず目を閉じていた。閉じれば、向こうも見えないと思ったからだ。その愚かさには言葉がない。
足音が遠ざかっていく。
目を開いて、音がする方向をのぞいた。
一般兵に混じって色の違う鎧に身を固める大きな背中があった。あれは
ガチャガチャという槍と軍靴の音が小さくなり、しばらくしてシーンと静まりかえった。それが逆に不安をあおる。
「来い!」
一兵卒の
──この得体の知れない男に、ついていって良いのだろうか。ああ、この思考。まるでわたしに選択肢があるかのようだ。そんなものはないのに。
わたしの生命を左右する選択肢は、あまりにも少ない。
男が強引にわたしの二の腕をつかんだ。
「死にたいのか」
「あなたは誰? なぜ……」
「いまは聞くな。俺が後悔する。まずは自分の心配をしろ」
彼は黒いマントを外すと、わたしの頭から被せた。引きずられるようにして城壁内を歩く。
人気のない城壁で、男はヒューと口笛を吹いた。それを合図に縄ハシゴが降りてくる。
「登れるか?」
切れ長の目に見つめられた。信用していいのだろうか? 今は何も考えたくない。考えるべきだが、わたしのために犠牲になった浜木の最後が浮かぶと、心がキリキリ痛む。
「どうした」
「いえ」
深呼吸をした。
浜木、あなたのためにも生き延びなければ、なんのために浜木を犠牲にしたのだろう。あああ、泣けない。悔しいけど、泣くこともできない。
わたしは縄ハシゴに足をかけた。
グラグラと揺れるハシゴは、まるでわがままな子どものように扱いづらい。
手足の筋肉に力を込める。
男は鎧と兜を脱ぐと、鼻と口もとを隠す覆面のまま、すぐ背後から登ってきた。
月明かりのない夜だった。
城壁に登ると、別の男がいて、わたしを助けてくれた。まるで、それは何でもないようなことのように。
背後を振り返った。父が寝所とする黄金御殿あたりが燃えている。
空を赤く染める火が不気味に夜空を明るくしている。
「父上……」
「今は、なにも考えるな。行くぞ」
──あなたは、誰?
その言葉を口にできなかった。
ただ、城壁を乗り越えた。
城内の喧騒とは、まったくかけ離れており、外部は静かだった。こんなに平和であることが不思議だ。
黒づくめの二人組は、わたしを伴って走る。
「どこか行くあてはあるか?」と、聞かれた。
ぜったいに行けない。
それに珠花の朝は遅いから、こんな時間に起きているはずがない。
どうしよう……。少しだけ迷う自分がいる。
今の気持ちをうまくいい表すことができない。
江湖に逃げよう。わたしの育った屋敷。あの場所へ行きたい。
江湖という土地は、さまざまな派閥が存在して
浜木と……、ああ、だめ。江湖は無理。
「どこへも行くあてはありません」
「そうか」という声に迷いを感じた。
静かな夜に、わたしたちがパタパタ走る足音だけが響く。この静けさが悲しかった。
どれくらい走っただろう。王都の門を超え、街道に入ると、馬が繋がれていた。
足が疲労で震え、もう一歩も走れないと思った。
「
「この
彼が話している間、わたしはその場に崩れ落ちるようにすわりこんだ。疲れ切った頭では、なにも考えられない。ただ、荒い息を吐くだけで、もう一歩も動けない。
「わかりました。どうか、ご無事で」
「行け」
「は!」
いったい、この男たちは何者?
男は馬にまたがると、わたしのかたわらに来た。
「さあ、立ち上がれ」
「ハアハアハア」
「あと、少しだ。ここで朝を迎えるのは危険だろう」
「わ、わかりました」
男の大きな手が差し出された。
その手を取ると、力強く引き上げられ、馬にまたがっていた。
「は!」
男が馬を走らせる。振り落とされそうでも、腕に力も入らない。しかし、必死にしがみついた。
息が苦しく、気を失いそうだ。こうした身体の痛みが心を空白にしてくれる。
そのうちに雲が切れ、『白虹の月』と呼ばれる明け方の月が西の空に見えた。もうすぐ夜が明ける。
(つづく)
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