やっと、俺を見つけた




「目がさめたか?」


 眠ってしまったの? 


 鳥の声が聞こえる。目を閉じていてもまぶたの向こう側は明るい。

 朝が来たのだろうか。

 永遠に続くと思った恐ろしい夜にも終わりがあるのだ。平和だろうが、戦時だろうが、時は同じように過ぎていく。


「もう少し眠れ」と、そっけない声が聞こえる。


 はっとして、わたしは起きた。

 いったい、わたしは誰と一緒に、でも、すぐに浜木の悲惨な最後が目に浮かぶ。恐怖で叫びそうになってしまう。


 父は? 弟は? 知っている者たちは皆どうなった?


 パチパチと木が燃える音がして、なにかを焼いているようだ。

 見ると、焚き火があり、枝に刺した魚を焼いてる。でも、匂いを感じない。煙が見えるのに、匂いがない。

 嗅覚きゅうかく麻痺まひしている?

 世界が、なぜかぼんやりしている。

 正気を保たなければ、そうしなければ泣いて、泣いて。わたしは、わたしは……。


「今は何も考えないほうがいい」と、男が言った。


 その声は優しく、聞き覚えがあった。

 焚き火の煙が男の姿を隠している。

 すぐ風の方向が変化して、白煙がゆらぐ方向を変えた。背が高く手足が長い姿。気品のある美しい顔。

 この男は……。

 リュウセイ……。


「あ、あなたは」

「気がついたか」

「な、なぜ、あなたが」


 リュウセイがほほ笑んでいる。あまりに驚いて、昨夜起きたことを一瞬だけ忘れた。彼がわたしを助けたのか……。


「息を吸って」

「……?」

「息を吸いなさい」


 わたしは震えているようだ。身体が自分のものではなくて、思ったように動かせない。


 ──ああ、そう。たしかに震えている。なぜ、震えているのだろう。


 リュウセイが、わたしの唇に竹筒をあてがうと、「まず、これを飲んで。気を失いそうな顔をしている。わかるか? ひどく震えている」と言った。


 いったい、どんな顔をしている?


 水がかってに口のなかに入ってくる。生ぬるい水が喉もとすぎていく。すぐにむせて、吐いた。

 浜木の最後、そう、浜木、なぜなの。

 息が止まる。呼吸ができない。

 息が、息が……。


「息をしろ」と、リュウセイが言う。


 ボーンと耳鳴りがして意識を集中できない。聞こえるのは、ただただ、自分の呼吸音だけ。


「ハッ、ハッ、ハッ……」


 い、息ができな…い。

 彼が私の顔を両手で押さえ、そして、唇を押しつけた。

 息、息が。

 彼の指がわたしの鼻を押さえ、口のなかに息を送り込む。


 逃れようとしたが、鋼のような力で抱きしめられている。


 そうしていると、徐々に息ができるようになった。

 涙が頬を伝うのを感じる。

 そうか、わたしは、まだ泣くことができるのだ。


 唇がゆっくりと離れた。腕はまだわたしを包んでいる。


「泣いたらいい。気が済むまで泣いていい」

「わ、わたしは…」


 その後は言葉にならなかった。

 リュウセイは慰めの言葉を言わない。ただわたしを抱いていた。あの日、遠い過去の、今では夢のように思える日。浜木が回廊まで見送ってくれた、あの華やかなお披露目ひろめの会。


 白く美しい袍に身を包み、天上の音楽を奏でていたリュウセイ。彼は立膝で月琴げっきんを抱いていた。

 今、彼の膝がわたしの背を支えている。わたしは月琴になった。心のない、ただの器になった。




 それから、朝が来て、目覚め、食事をして、森を歩き、夜が来て眠る。

 日々が単調な繰り返しで過ぎた。


 ある日、わたしは笑った。


「どうした」と、リュウセイが聞いた。

「命は、あんがいと丈夫なものだと思って」

「だが、心はそうではない」


 わたしは答えなかった。答えられない。“無”であることしか感じられない。

 ときどき死にたいと思ったけど、『生き延びて』と浜木が言ったから、息をした。


 食事をしないと、無理やりリュウセイに食べさせられた。森のなかで寝場所を確保して、雨がふれば、濡れない場所を探してくる。


 彼は、わたしの傍にいた。


 いつの間にか、季節は夏から秋になろうとしていた。

 その日は、風が強く、しばらくして嵐になった。雨がいつまでも降りやまず、洞窟から出ることができなかった。


「いつまで、どこに……、ここは、どこですか」

「やっと疑問を感じたのか。世話がやける」

「ごめんなさい」

「謝ることはない」


 リュウセイは消えかけた焚き火に枝をたしている。ゴツゴツした岩でできた洞窟内にパチパチという音が、外からの雨音に重なる。

 風はしばらく強かったが、いつの間にか聞こえなくなった。


「さあ、木の汁でつくった。飲んで」


 彼の差し出した器で汁を飲む。肉まで入っている。わたしが世界を閉ざしている間、彼はずっと側にいてくれた。

 いったい、何者なのだろう。普通の楽士ではない。


「味がわかるか」


 コクリとうなずいた。


「そうか。話もできそうだな」


 洞窟の外では雨が止み、陽がさしはじめている。リュウセイはそれを見てうなずいた。


「では、行くか」


 無言で従うことに、お互いになれてしまった。あの日から何日過ぎたのだろう。


 ──そんなことを考えてはいけない。考えると変になる。


 ぬかるんだ道を彼の背後から歩いて行く。ずっとそうしてきた。今、はじめて、それがどういう意味なのか知りたくなった。

 この美しい男は、なぜ、わたしを助け、わたしの側にいるのだろう。

 そう聞きたかったが、別の言葉が出ていた。


「どこへ向かっているの?」

「どこでもない。ただ、森をうろついていた」

「なんのために」

「時を稼ぐためだよ」


 彼が立ち止まった。


「麻莉」


 彼が呼び捨てした。

 まるで対等な立場の男のように。彼の態度は下層階級であることを忘れさせる。それは、とても心地よいはずだ。たぶん、こんなふうに心が凍結してなければ。だから、わたしは彼を見た。


「やっと、俺を見つけたようだな」

「意味がわかりません」

「ふっ、人を認識できたって意味だよ。おいで、見せたいものがある。昨日、たまたま見つけた」


 水分を吸収した森は、キラキラ光っている。

 すべりやすい地面に足もとがふらつくと、彼がいつものように私の手を取った。嵐は過ぎたが、その影響で、地面や岩肌に濡れた葉が張り付いている。


 雨上がりの森は、いい匂いがした。

 匂い……。

 匂いを感じた。

 まるで生まれたてのような、この清々しい匂いを、あれ以来、全く感じることができなかったのに。


 森を抜け崖ぎわにくると、遠く地平線まで見渡せた。

 こんな場所があったのだ。


 太陽が雄大な地平線の先に落ちようとしている。


「雄大で美しい夕日。月並みだけど、こんな景色を見ていると、どんなことも、どうでもいいと思わないか? たとえば、明日、死ぬとしても。大事なことはそれだけになる」


 リュウセイの声が聞こえる。


「……大事なことはそれだけ……」


 夕日のなかで、わたしは、ひさしぶりに自分の五感を感じた。


 肌に触れる風、

 空気の匂い、

 鳥や虫の音、木々のざわめき、


 目に見える景色。


「この世は、美しい……」

「ああ、美しい」



(つづく)

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