天界と魔族
「どうした?」と、彼が湯船に近づく。
「もう、大丈夫です」
「いや、身体を洗い終わるまで助けてあげよう」
「そ、そんな、どうか浴室から出てください」
彼の目に宿る冷たさが消え、その代わりに憎らしいほど楽しそうな表情が浮かんでいる。
フンっという表情で彼は唇を上にまくり上げ皮肉に笑った。出ていく気配がない。そして、樽の横にあった踏み台を入り口に置くと、足を大きく広げて、ゆったりと腰を下ろした。
「さあ、王女。お身体を洗ってください」
「あなたは、いじわるです」
「おや、知らなかったのか?」
わたしは浴槽のなかで、やけになって身体を布でこすった。
彼は風呂桶に肘をつけ、吹き出しそうな顔で見ている。それから、上着を脱ぐと半裸になった。筋肉質の身体には汗が光っている。
棚にあった小さな桶を取った。
「あ、あの」
「後ろ向きになって」
「でも」
「さあ、後ろ向きになって背中を樽につけて。できなければ、俺がしようか?」
慌てて後ろ向きになって樽に背をつけた。
「この縁に首をつけて顔を仰向けに。目を閉じて」
言われた通りに縁に首をつけると、彼の手がわたしの髪をすっとかき上げて、外に垂らした。
「もう少し、上にあがって」
「は、はい」
上半身をあげる。
ポチャンと音がして……、恥ずかしくて湯船に隠れようとすると、彼の手に抑えられた。
彼は右手に持った小さな桶に湯をすくい命令した。
「目を閉じて」
わたしは従順に目を閉じた。
桶から湯が流れる音がして、髪を濡らしていく。
彼は石鹸をこすると髪につけ揉みしだいた。その手は、あの夜のように繊細で優しく、わたしの髪を愛撫するように、たゆまなくほぐしていく。ゾクゾクする感触に身体が溶けていく。
耐えきれずにわたしは大きく息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出す。
彼は、ふっと笑い、髪を丁寧に洗い流し、それから、その繊細な指は首筋を愛撫して、そして……、さらに……。
わたしの喉から、わたしの知らない声が漏れた。
「これは紫龍のアザ」
彼の手が、そっと背中のアザに触れる。
その瞬間だった。
あっと思うと、意識が消えた……。
◆
◆
◆
──お母様、なぜですか?
わたしの声……?
この場所はどこだろう。
背後で炎が燃えている。見える範囲は、すべて岩のごつごつした壁になっていた。上を見ると、やはり岩の天井。
洞窟? それにしては広大な場所だ。洞窟にしては広すぎるようだし、自然のようでいて、なにかの手が加えられている。
赤い透けるカーテンがところどころに掛かっている。この装飾は誰かの趣味だ。よく知っている誰か……、そう、わたしの母の趣味。
なぜか懐かしくなり涙が滲んでくる。ああ、わたしはこの場所を知りすぎている。なんて懐かしく愛おしい場所なのだろう。
──下がりなさい、
わたしに冷たい視線を送る女性。黒装束を身にまとう美貌の女。彼女のことは、本当によく知っている。氷のように冷たい人だ。
夫を
記憶が蘇ってくる。
この日、わたしは母におねだりをしていた。
許されないとわかっていても、当たって砕けろって気分だった。どうせ、母の言うことなんて聞くつもりはない。
──天界で開催される『花の祭典』に行きたいの。一度でいいから。
──諦めなさい。お父さまが、なぜ、封印されたのか知っているでしょう。
母は魔王の正妃だ。
父である魔王は天界に無謀にも戦いを挑み、あっさり封印されてしまった。以来、魔族の力は弱まった。三百年前のことだ。
巨大な力を持つ天界の神々にとって、常に反発し、戦いを挑む魔族は忌むべき存在だろう。当時のことをわたしは覚えていない。まだ、幼かった。
永遠とも言える時間を生きる世界では、三百歳など若すぎる年齢だ。
その日、わたしは天界で執り行われる『花の祭典』に行きたかった。
花の精の女王、
わたしは好奇心旺盛で、わがままで、そして、無邪気な
花の祭典当日。
わたしに昔から付き従う従者、
──まずいですわよ、
──簡単よ。おまえが、言い訳を考えるだけ。
──あのですねぇ。
──ほら、見て。花びらが落ちてきている。はじまったのよ。
天界の城は中空に浮かぶ白を基調とした壮大な建築物だ。
四季を問わず、さまざまな花が華麗に咲き乱れている。
そんな花であふれた天界で、『花の祭典』は、さらに豪華な
薄紅色と青色が混ざった空から、はらはらと落ちてくる花びらは、数万、数千万、数億万枚にも及び、さながら雪のようだ。
花の女神の指先に呼応して、花びらが舞い散り、
天界の湖からは水滴がゆったりと漂い、上昇していく。
花びらと水滴は幻想的なまでに美しく交わる。『花の日』祭典の目玉だ。
数億万枚の花びらと水滴は、薄紅色に世界を満たす。
花びらと、それを反射する水滴以外に何も見えなくなる。
と、鮮烈な音がして、突然、空に昇る飛龍があらわれた。花々のあいだを突き抜け、黄金の光を放ちながら天に向かって登っていく。
魔界では決して見たことのない、神々しい美。
──あ、あれは……。
──お姫さま、紫龍ですよ。
薄紅色の花びらのなかで、紫龍は男神に変化する。
それは……、それはもう美しく凛々しい男だった。
──姫さま、よだれが。
──あれは、あれは?
──天界の帝、
──
その一瞬、わたしは怒りを覚え、一方で恋に落ちた。
(つづく)
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